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月読寺
坐禅セッション感想文



投稿しませう良い子も悪い子も。 このページには、半日の坐禅セッションに参加された御方からその日のレポートや感想文を頂戴して、掲載しております。


集中的お稽古の感想文はこちらから。

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ご感想はこちらのフォームから投稿をお願いいたします


先日はお掃除セッション参加させていただけてありがとうございました。

予想以上の基地っぷりにびっくりして、最初は「私、私だったらもしこんなところに住む事になったら泣いちゃ う〜」と思いましたが。

掃除が終わる頃には「こうゆうところに住んでも面白いかも、恋とかできるかも」と少しワ クワクする方へ心境が変化しました。

大勢いたからか、たまに集中できたからでしょうか?

どんなところに住んでも、幸せになれるだろうし、まどわされない精神性が大事なんだなぁ〜、と忘れていた感覚を思い出しました。 自分の精神性の暗さにも気づきました(笑)


本日8/29、初心者指導を受けさせていただきました。 2度目なのですが、今日も発見ばかりでした。ありがとうございました。

呼吸は、観察していたら本当にどんどん違う様になっていって不思議で面白かったです。 足の痛みも、先日よりも、あるにはあるけど気にならなくなっていて、喜んでしまいました。

それにしても、やはり呼吸にのみ集中していく時よりも、休憩を挟んで3回目の、六感から入ってくるものの移り変わりを追いかけていく回の方が、とても難儀でした・・・。

考え事が・・考え事が・・考え事が・・!!勝手に!勝手に!!勝手にぃ〜!! 考えようなんて思っていないのに、次から次へと脈絡の無い考え事がっ! スゴイものですね、人の脳ミソって・・。あんなに勝手に色んなことを次から次へと・・・。

うるさいぃぃ。 ・・・・あ、怒・・。

脈絡の無い考え事がどんどん現れるのは良しとして、それらを静かに眺めることが、こんなにも出来ないものなのですね〜・・・。

また、様々にボコボコと見えてくるイメージも、何故か、「夕焼けにシルエットの人影」とか「灰色のスウェットのおじさん(???)」とかとかとか・・・

それへ、ぐぐぅっと飲み込まれてしまい、流されてしまい、「はっ?!」みたいなことを繰り返す・・ そして、「はっ?!」の度に、「なんなんじゃ、こりゃぁ??」 「あ〜ん、パシっとつかまえられなかったじゃ〜ん!」

・・・やはり、怒・・・。

それから、これは呼吸だけの時にも起こったのですが、ある現象が起こり「あれれ?」となりました。 その現象とは・・集中して入っていってるのか、眠くなったのか、イメージが現れているのか、夢を見ているのか・・・ ・・なんだかよくわからない、夢うつつ状態です。

実は初めてうかがった前回も、そうなる瞬間があったのですが、その日は「昨日の疲れが残ってるのかしらん。」くらいに呑気にやり過ごしたのですが、今日は「変なのぉ〜。これではいけないんじゃないだろうか・・・」と、思いました。

・・・あぅぅ・・これも、怒・・・。 小池さんのサディッションされるお声はちゃんと聞こえてくるのですが。

こうやってみると、どうやら私はいつも怒っているのですね・・・。 そうかぁぁ・・・。 ゾンビな上に、怒りんぼう・・・。 そうかぁぁ・・・。

坐禅の日は、大変ぐったり疲れます。 たぶん、色んな意味で緊張しているし、慣れないということもあるかもしれませんが、おっしゃるように、うまく成功させたいという欲が、力ませエネルギーをいっぱい空回りさせているのでしょう・・。

お食事も難しかった・・。 どうしても、先へ先へと、わかってても、先へ先へと行きたくなっちゃうし、周りの人の速度も気になっちゃうし、どうしてどうして、感覚だけに集中しきらない・・・。

例えば日常では様々な刺激が入って難しくても、月読寺というシュチエーションでなら出来そうなものだ! ・・・はっ・・またも、怒・・・。 うひぃぃ。

ますますお稽古するべし、私。 私のような者こそ、お稽古する価値有り!ナンチャッテ。 ・・・あ、ナンチャッテって言っちゃった・・!ワキによけてるフリした自己洗脳・・・??? あうぅぅ。

自己洗脳・・お話をうかがって、日常的にさんざんしていると思い当たります。 忘れたフリなんてよくします。「もう忘却の彼方よ」なんて、口に出してわざわざ言ったりしたことあります。忘れてないじゃん・・・。

「もう、それには執着は無いんですよ」とか、この間も言ったばかりです・・・ かなり囚われていますネ・・・。

「うまく念じれるようになりたい。うまく滅して流したい!」という、この欲の強さったら。 むむぅぅ・・・。

しかし、自動的ってスゴイなぁぁ。 とにかく、本当に、全然‘今ここ’を味わっていないことはとてもよくわかりました。 また、ご指導どうぞよろしくお願いいたします。


8月8日座禅セッション午後より終了時まで参禅させていただき、大変ありがとうございました。

ご住職はこの一週間瞑想ちうでいらした最終日とのご様子で、全くいつもの座禅セッションの雰囲気とは違い、本当に驚きました。どのようなご心境でいらしたかは凡人の私にわかることではありませんが、伝わる波動感というか空気は微細、微粒で、あやうく固体を成していらっしゃるようで、重力をお感じになっていらしてもきっと重くは感じられないようにお見受けしました。

手放せば、やさしくなるのですよ、と仰るお言葉はそれで実感をともなっておりました。やさしさの定義など必要ないことでしょう。

浅はかなこちらにさえも、座禅の功徳を垣間みさせていただき、深く感謝申しあげます。合掌


8月8日の満月セッションでお世話になりました。2回目の座禅セッションで、前回と違い、足を動かしたいという衝動に打ち勝つことができました(やったー)。

今まで、足の痛みって降ろさない限り永遠に続くものと思い込んでいたが、痛みを見つめていくと、消える時があることがわかり、今回特に見つめると、痛みが長く消えて、気にならなくなりました。

しかし、心のほうは、というと、前回に比べてあまり落ち着くことができなかったような気がします。もしかしたら、そうではなくて、もっと細かく見られるようになったから、そのように思っただけかもしれません。

それよりも、座っている最中に、突然義父母への謝罪の念がとてつもなく強くなり、頭の中は、「すみません、ごめんなさい。」という念だけになり、涙が止まらなくなりました。どうしたらいいかともちょっと思ったが、その念が強くて、そのまま任せてしばらく謝罪していました。しばらくして、念が落ち着き、なんだかすっきりしました。

その後、自宅で座っていた時に、自分とほかの人は、みんな同じ根っこから出ているっていうイメージが出てきました。それによって、悪い人も、良い人も、どんな人も、実は、自分の一部っていうか、みんな同じなんだとわかったのです。

自分の中にも、その人の弱さがあるし、ずるさがあるしっていう感じです。それによって、なんとなく悪い人は、その人だけが悪いのではないという、なんか共同責任のような、言葉で言うの、なんとなく、うまく言えない気がしますが。

これを知って、自分の業を少しでも減らすことができると、世の中の悪が少し減る気がします。すみません。これって、妄想ですか?

あと、座禅中に出てきた強い謝罪の念とかの時は、まかせて、観察すれば良いのでしょうか?
A:「これが本当と思える考え」が出て来たとき、安直にその思考と一体化しないよう心がけましょう。

「すべては一つ、つながっている」的な思考は、集中力が高まってきたときに出てきがちな、典型的な「解釈」「思考」なのであります。(それは、バラモン教や道教やニューエイジ宗教などに見られる思考形態と申せましょう。) あくまでも一つの「自分なりの考え」に過ぎないこととして、それをも突き放して観察対象にいたしましょう。

おさえこまれていた(謝罪などの)思いがわきあがって来たときなどは、「謝罪の思考、謝罪の思考、謝罪の思考」などと念じながらその感情を客観視されることです。 客観視されることで、そこに滞っている感情が、より早く抜本的に洗い流されてゆくことでしょう。


25日のセッションはご住職のメールでいただいた「三度目の正直」という言葉にはげまされ、体調が悪いながらも参禅することができました。 どうもありがとうございました。

とはいえ座禅中は「変化を嫌がる心」の抵抗が強く(特に「怒」モードの大放出!)、集中も観察もままならずモゾモゾと座っているのがやっとの状態でした。

それでも最後の方では、過去に大切な挑戦やチャンスを前にしながら、この「変化を嫌がる心」の抵抗で体調を崩して断念したことが,その時の感情や身体感覚と共に表出し、それを味わい観察することで、だいぶ楽になりました。

…ああ「変化を嫌がる心」は私の不安や怠け、慢心などに取り入り、何度も同じ失敗をくり返させていたのですね。そして、その輪から脱するには座禅瞑想を進めていくしかないのですね。

どうぞ、これからもご指導をよろしくお願いします。


心の動きって本当にあっという間(いえそれ以上)に移り変わっているのですね。

自分に驚く事がしばしばあり、時として精神分裂症なのではないかとドキリとする事もあります。(掴み様がなく…)

とにかくあきらめず、精神力を保ち「念!」と素早く打ち込む事を忘れずに日々過ごそうと思っています。

お陰さまでイメージに念を打つ事ができ、すっかり消えました。では、また次回もよろしくお願いいたします。


7/25のセッションに参禅させて頂き、有難うございました。ご住職のお話、一言一句聞き漏らさないように、雑念をたくさん挟みながらも(笑)、聞きました。

浮気や離婚のお話は、その仕組みが明快に分かって、納得!でした。相手を変えようと(自分は全く変わろうともしないのに)躍起になればなるほど相手は頑なになり、自分の欲や怒りを手放すことによって逆説的にうまくいく…。子どものころに絵本で読んだ「北風と太陽」を思い出していました。

恋人や配偶者間だけでなく、親子、上司と部下との関係等についてもお話を広げて教えて下さって、分かりやすかったです。自分を省みると、子どもの反応パターンのまま大人になってしまい、怒りの業を積み上げ続け、なんてことをしてきているのだろうと恥ずかしくなりました。

そして、怒りのほとんどは、本来思いどおりにならなくて当然なものや人を思いどおりにしようする、自らの傲慢な気持ちにより作ってしまっている!という気づきがありました。

それから…朝と夜にわずかな時間ですが坐るようになり、変化が現れています。怒りが生まれたときに自分の心のなかを見つめられるようになりました。

まだ集中力も観察力も全く無く、すぐに客観視して消滅させることはとてもできないものの、「ベッタリ一体化」から離れるため、心臓のドキドキや呼吸の乱れを感じ取りながら、刺激の強さに負けて飲み込まれそうになるのに耐えています。そんなときは、なぜだか無性に坐りたくなります。

呼吸を整えるだけでも心の波立ちがおさまるように思います。ご住職の御本を読むようになって、ブッダの教えというものに初めて興味を持ち、月読寺で目にいたしました「ブッダのことば」と「ブッダの真理のことば 感興のことば」を図書館で借りてみました。パラパラ眺めているだけといった状態ですが、こんな言葉が目にとまりました。

「よく気をつけていて、明らかな知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。 − 月がもろもろの星の進む道にしたがうように。


参禅された皆様の感想文のup、拝読いたしました。ご住職がおっしゃるとおり、「励み」になります!

特に同じ日に同じセッションに参加された方の声は、同じ時間と空間を共有したとはいえ、各人の感じ方(&脳内ストーリー?)は重なる部分や、当然ながら全く異なる部分があり、とても興味深かったです。

坐禅用の座布団というものがあるということ、知りませんでした。坐禅関連のサイトで紹介されていた坐禅用の座布団のお店を見ていたら…

坐禅のお供に最適(?)のクマのプレゼント企画まであったようで、クマのあまりのかわいらしさに投稿してしまいました。


先日お世話になりました。先日も感想書いて提出しました。昨日奇妙な夢をみましたので、追記します。

座禅セッション後、なるべく生活の中で、いま自分の心は、どこにあるのか、それを見つけては、いまやっている行動に注意をもってくるようにしています。たとえば、歩いているなら、「歩いている」と念じて、足の感触などに注意するようにしています。なかなか難しいのですが・・・。

昨日、そのようなことを夢の中でやっていました。そして、夢の中で、これは、雑念と念入れたりしていました(笑)。そしたら、前後よく覚えていないのですが、急に鼻の穴に違和感を感じて、指を入れて格闘すると、なんと、大きいボール(顔ぐらい)の鼻くそが取れたのです。(汚い話で本当にすみません。)取れて、なんかすっきりしました。

あまりにも、奇妙な夢だったので、追記させていただきました。これって、座禅セッションとなにか関係あるのでしょうか?

玄米あずきがゆは、とってもおいしかったです。家でも、早速まねて作って、セッションの流儀で食べました。

また、いつも一人で坐ると、集中力がすぐに切れて、30分がやっとでしたが、今朝は、1時間でした(やった〜)。

心を制御するって本当に難しいですね。

日常生活の中で、すぐに勝手に出る身体の一挙一動、歩いてのか、歩かされているのか、セッションのあとは、歩かされていることに気づくことが多くなりました。なるべく自分で歩くように勤めています。(Automaticはいやよ。)

ゾンビから脱出した〜い!!!

といっても、2才の娘をあいてに、本気で怒ってしまう、まだまだ駄目だめな親です。がんばります。


昨日朝の九時から、午後の4時までの座禅のお稽古でお世話になったものです。娘を預けていたので、お礼もちゃんと言えずに、慌てて帰ってしまいました。

長い時間のご指導、およびあずき玄米粥(おいしかった!!)本当にどうもありがとうございました。

普段なかなか長い時間坐ることがないものですから、午後のセッションになると、もう両ひざが悲鳴をあげていました。痛み痛みと念を打っても、もうどうにもならず、心中では発狂しておりました(笑)。心の中では、コントロールを失った自分の心に「このままだと、足が折れる!」とだまされて、足を動かしたい衝動にどうにもなりませんでした。

しかし、普段自分で坐っていた時では、あまり意識されなかった、時々映画のような映像が飛び込んでくるのを意識することができました。娘とショッピングに行ってたという映像や、いきなり娘が急に目の前に飛び込んでくる映像など、「ハッハー、普段の時に、これらが無意識に現れては消えているんだな」、と気づき、思わず可笑しくなりました。

説法では、「怒りは、自分が怒りたいから、自分でその怒りを取りに言っているんだ」、ということを聞き、よくわかったつもりでしたが、やはり、帰ってきたら、だめでした。言うことを聞かない娘に対して、イライラして怒ってしまいました。まったくだめだめですね。

怒りを少しでも制御できるよう、がんばって、自分も座禅したいと思います。また、どうぞよろしくお願いいたします。


7/18の坐禅セッションに初めて参加させていただきました。ありがとうございました。

本当に‘お稽古’をしたという感じで、初心者にとてもありがたかったです。

坐禅をしてみると、本当に頭の中が五月蠅いことに驚きました。泡ブクみたいに、ぽこぽこと、次から次へと、音やイメージや思考や・・・ぽこぽこぽこぽこ!モグラ叩きみたいになりました。そうじゃないかなぁ〜とは思っていましたが、こんなにも頭の中が五月蠅いとは・・!業が、いっぱい溜まってます・・・。

「人はたいてい過去に生きていてゾンビみたい」というようなことをおっしゃられていたのが、とてもハッとしました。

本当に、そうです。今ここにいて、今ここでのことを行っているにもかかわらず、脳ミソの中はいろんな雑念があーでもないこーでもないと巡っていて‘今ここ’に正に生きていないかも・・・。食べている瞬間もそうだったとは・・。ああ、ゾンビかぁぁ・・。

まだまだ色んなことを、今回の坐禅で発見しましたが、なかなか言葉につくせません。またおうかがいして、坐禅のお稽古を重ねたいです。またよろしくお願いします。ありがとうございました。


7月11日に、坐禅セッションに参加させていただきました。

始まりは、本屋でたまたま手にした「煩悩リセット稽古帖」でした。ぱらぱらとページをめくって、なんだかおもしろそうということで、買って読みました。

いわゆる自己啓発本と呼ばれるものばかり読んでいた自分にとって、その内容は、カルチャーショックでした(いわゆる『がっびーん』です)。そこから、他の著作も読ませていただき、ますます驚きと納得でした。そんなことから、坐禅に 興味を持ち、近くの寺の参禅会にも行ってみたのですが、そこの坊主のヒステリックさに違和感を覚え、よしっ、ここはいっちょっと、今回の参加となったわけです。

当日は、なんと壁の後ろで、小池様の声のみが聞こえるという、絶好のポジションでしたが、坐禅中は瞑目してるから、まぁいいやということで、特に移動もしませんでした。

午前中は、風が気持ちよく、半分寝ていたんじゃないかと言うくらい気持ちが良いまま終わりました。しかし、問題は午後。もう、足が痛くて痛くて、足の痛みと雑念と音の三つどもえに襲われ、だんだん「なんで、こんなことやってんだろう」とか思い始めたときに、小池様がそのままをおっしゃたので、思わずエスパーかと思いました。

昼食も、未だ食べたことのないものばかりで、びっくりしましたが、その際に教えて頂いた食事五観文の「形枯を療ぜんが 為なり」というフレーズが、とても印象的です。坐禅の合間の、質疑応答タイムにも、発言することなく終わってしまったのが、若干心残りかもしれませんが、他の人の話が聞けたのは、結構興味深かったです。

帰りの電車の中でも、足が痛い、足が痛い。家についても、足が痛い、足が・・・。なのに、速攻、坐禅用の坐蒲を買っちゃいました。どうやら、その気持ちよさのほうが、勝ったみたいです。家でも、「自分を浄化する坐禅入門」のCDを使って、毎日、坐ってます。『坐禅セッションお稽古合宿』を目標に、坐り続けようと思います。

今回のセッションに参加して、本を読んで抱いた、坐禅に対する過大な期待を、良い意味で打ち砕かれたこと、坐った後の、言いようのないすっきり感を感じることができたことが、収穫でした。どうも、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。

これから暑い日が続きますが、体調に気をつけて下さい。それでは、失礼いたします。


本日は(もう昨日でした)ありがとうございました。あれほど来週だ、今週だ、明日行くんだ〜と思っていたものが、もう終わっている、というのは不思議な気が致します。

何か感想も、と思いましたが、言葉になりません。実践を続けたいと思います。おかゆ、ごちそうさまでした。


先日7/11の座禅セッションの際、説法の中で「心の穴を埋めるものを追い求める」についてのお話、とても興味深くなるほどなぁと拝聴しました。

私も、学生の頃から今に至るまで、「穴」を埋める何かを絶えず求め続けておりました。 そして、穴は埋まらぬ、ということに漠然と気付き始めたところでした。

しかしながら、まだまだ埋まらない「穴」の存在をどうするか・・・というところまでは答えが見つかっていませんが。少しずつ、少しずつ、仏道の智慧を借りながら着地点を見出せれば、、、と思いました。


「初級者にハードな話をしてしまいました。」とおっしゃっていましたが、ブラックホールのお話では大きなヒントを与えてもらったように思います。

私自身、底なしのようなブラックホールを抱えて(本日までそのように信じ込み、とらわれ)、埋めようとして放り込み続け、ループから抜け出せずどうにもならなくなっていました。

でも、ご住職の「過去は書き換えられる」との御本の中のお言葉に、変わりたい、変えたいと強く思い、また、本日の「ブラックホールを閉じられる日が来る」というお言葉に、いつかそうなれるようにお稽古を積んでいきたいと思いました。


こんばんは。六時を過ぎたと言うのにまだまだ明るい。初夏なのですね〜。

昨日の最後にした夢の話、自分でも思っていなかった着地点でした。毎回セッションに行く度にさらさらと淀みが流れていくようです。

今回「仏道としての素直ってどういうことなんだろう?」その答えを聞けたことで、無理をして強がって歪みを大きくしていた自分の怒りが軽くなりました。夢判断、よくぞあの少ない情報で深層心理を暴きだしてくれたもんだな〜と思います。

龍之介さんの言っていることは「今この瞬間を明晰な意識で捉える」ということなんだけれど、それが頭で理解したつもりになってるだけだから、場面、状況が違ったりするととたんに混乱して苦を増やしていたりして、もっともっと座禅にコンスタントに取り組み続けなければ肚に落とし込むことができないんだろおうなって思いました。


先日7月4日の坐禅セッション(13時から中級)ご指導ありがとうございました。

当日体調が悪く、参禅を控えるべきかと逡巡いたしましたがこれも稽古と思い出席させていただきました。

参禅されにきたほかの方々の気や、ご住職の清冽な気に触れると、それだけで気迫が漲るものですね。ありがとうございます。

中級の最後「識」の観察。認識にのぼる以前に映像がパッと映り、その映像を構成するものがあるのまではとらえた気がしますが…そこまでです。

それが勝手に生まれ出るものと概念的には理解しますが、それをパッとつかまえ、「念」を入れるまではとても…といった感じでした。

やはりここにくると「定」の能力の低さを改めて認識します。

アナパナ瞑想をしていて、時にスッと静寂に入り目の前に白いものが観察されるようなこともありますが、いまはそこまでです。

ほかの参禅者の方々の集中度合いはさらに進んでいるように感じられ、あのような空間で瞑想に取り組めること、非常にありがたく思います。


2ヶ月ぶりの参禅で、体調も万全とはいえず・・・途中での脱走も覚悟?のうえでしたが、不思議と目を閉じれば、「何もない空間にたった一人」になれました。

世田谷線の音は単なる音で遠ざかり、時折り左頬から右頬へ流れていく微風が一瞬の楽を与えて走り抜ける道筋をはっきりと見たように感じました。

帰宅後に洗面を済ませた時、ここ一ヶ月以上治らずジクジクと長引いていた傷の瘡蓋が、どれもポロリと剥がれ落ちて、もはや返す気配のない様子であることに気付き少なからず驚きました。

坐禅の奇蹟・・・などと安易に考えはいたしませんが、その朝まで、この瘡蓋は永遠に治らないのかしらと思うくらいの状態で したから、偶然とも言えず。坐禅は心に様々な影響をもたらす・・・ならば身体に対して解毒作用があるのも当然かと、納得した次第です。


昨日のセッションでは、説法リクエストにお応えいただき、丁寧な解説をありがとうございました。

帰りに大阪駅構内の雑踏で、人々が交錯しながらてんでにバラバラの方向に歩いているのを見たら「あ、無常だ」と思い、なぜか急にうきうきと楽しい気分になりました。

ふつうなら疲れているはずなのに、今からでも何かやれそうなエネルギーを感じました。不思議な体験でした。


昨日(日付が変わってしまったので一昨日ですが)座禅セッション初心者指導に参加させていただき、ありがとうございました。

みなさん静かに始められているところに遅れて入ってしまい申し訳ありませんでした。当日体調がすぐれず、どうしよう・・・こんな具合で座禅できるのかな・・・?でも、せっかく満員のところを1席確保してるのにキャンセルなんて、だめだし、、がんばって行くしかない・・・!なんて、ぐずぐずしていたら遅れてしまいました。厳粛な気持ちで始められているのに大変失礼しました。

今回、初めて座禅を体験し、感想はびっくりすることだらけでした。

1回目は緊張していたせいか、体調のしんどさもあまり感じないぐらい必至で座禅していて、わりとあっという間に終わったのですが、またすぐ2回目があるのにまず驚き、そして、2回目はリタイアしたいぐらい辛くて、自分でも驚きました。

お腹痛い、足痛い。あと、目を閉じて呼吸に集中すると、だんだん息苦しくなって、吸っても吸っても酸素がないみたいになり、パニックになりかけました。本当に、とっても苦しかった。。。多分なのですが、、閉所恐怖症なので目を閉じた(視界のスペースがない)状態で息に集中していると閉所と同じ感覚に勝手に陥ってしまったのかもしれません。

目を開けてはいけないし、、汗がでてきて、どうしようどうしよう。。。早く終わらないかな(涙)みたいな感じでした。そういうときに、小池住職のインストラクションが入って、それを聞くことでかなりの助けになりました。

そして、何度かうまく呼吸に集中した時、ふと楽になる瞬間があって、息苦しさや痛さを感じず、そのシーンと静まりかえった瞬間が瞑想エリアの入口?だったのかな?と後から思いました。不思議と最初から音についてはうるさいとか全然気にならず、、自分のしんどさと戦うのが精一杯みたいな感じでした。

とにかくとにかく、座禅は想像していたのとは全然違うものでした。

自分の些細な欲求、目を開けたい(これは無意識に1−2回、一休さんみたいに片目を薄目開けてしまってから、あれ!って気づいたのもあり、ダメなのに勝手にしてるからびっくりですね)、痒いところに触りたい、苦しいから胸をなでたい、「ああ、どうしよう、ここでもう無理ですとか言ったら私だけダメ人間だ」とか考えたり、そいうのを制御するのがこんなに大変とは。

長い間、外資で仕事をし、海外に住んだり、「自分を表現する」ことが大切な文化に浸り、我慢するってことがものすごーく大変になっていたんだと思います。

ダメなのに勝手にしてしまう、のもう一つは、食禅の際、一度置かないといけない、とわかっているのに、お粥の舌触りの良さにもう一口、、食べちゃってから、あ!自分でも「なんって恥ずかしい、幼稚園児みたいじゃん」って思いました。不思議ですね。

次から次に湧いてくる欲求とか不快感と戦うのがあんなに大変なんて。音楽を聴いてリラックスして瞑想とかと座禅は全然瞑想の種類が違う、というか、座禅はちょっと精神体育会系的な気がしました。。。

なるほど、修行、といわれるのはそういうことなのかも・・・思いました。今回参禅させていただいて、小池住職のインストラクション付きだったから3回、耐えられたんだと思いました。ほんとに、もうダメかも、、という時にインストラクションが入り、乗り越えられる、の繰り返しでした。

とても貴重な体験でした。そして、できればぜひまた参加させていただきたいです。次回はもう少し後ろので。。。


7月7日の座禅セッションに参禅させていただき、大変」ありがとうございました。今回19時までの3時間の参加とさせていただきましたが、暑さの中、窓からの風がなんとも気持良く、それに惑わされないよう、感じつつ感じない、お話しておられた焦点をあわせない、とはこれかな、と思いました。

誰でもが苦慮する長電話対策、夜食のこと、遅刻のことなどを仏道として考えるのもなるほど、と思いましたが、禅定についてのお話は集中力の段階づけとして興味深く、科学者が色々仏法を論するのもさもありなん、と思いました。

しかし普通に普通が大切、丁寧に克明に生きると戦争する人はいなくなるはずですね。またうかがわせていただきたく、どうぞよろしくお願いもうしあげます。


七夕のsessionに参加いましたました者です。どうもありがとうございました。

初坐禅の感想は…『辛かった!』です。

3回中2回目以降は足の痛みと、ちゃんと食事をしていなかったせいか汗がダラダラ出てきて倒れるかと思ふ程でした。

他の方々が皆すごい人に見えた…。1回目のsessionでは余裕があったせいかある不思議な感覚をおぼえました。呼吸のただ1点に集中していると『痛み』や『辛さ』を感じず、心地よく穏やかな感覚のする瞬間があったのです。不思議でした。

ですが、そもそも私は基本の座り方すらできなかったので、家で自主練習をしてまた参加したいと思っております。

休憩時間は木琴かわいいなーだとか パスタがあるなーだとか 浄水はブリタか?だとか あ、あんな所にボンドがあるなーだとか 大きな土鍋だなーだとか 雑念いっぱいのただのファンと化していましたが、それもまた楽しいひと時でした。

ありがとうございました。


先日は、初等部・中等部に参禅させていただきました。ありがとうございました。

初等部での問答では、観察して手放すことも僅かながら体験しているのにも関わらず、『脳内に引きこもっている間は、痛くない。ならば、引きこもっちゃおっかなー』などという、浅はかな反応パターンが未だしっかり根を張っていて、あらゆる面でこのパターンで生きてきたとはっ、とハッ気づき、「うわっ、うわっ、うわーーーーーーーっ」とショックを受けました。

中等部では、『鼻先の一点に集中するぞっ』と決めているのに反して、音、身体感覚、思考などにパパパパッと意識が飛んで行くし、「あっ、音に飛んだっ」と掴んだと思いきや、即座に違う刺激に飛んで行くし、念を打とうにもちっとも間に合わないし、脚が痛くなって、「刺激と嫌だーという反応はイコールではないから、刺激そのものを観察すること」と知識では、分かっているつもりでも、気づいたときには「嫌っ、嫌っ」と怒っているし、「中等部にもなって、足を組み替えたら恥ずかしいわよねー、でも痛いし、あと何分かな」などと、思考が超高速回転し始めるし。

すべて、すごい速さで、勝手に、展開していってしまって、

「何がなにやらわからない」と、無知・無明にとっぷりはまって、痛い脚を引きずってトボトボ帰りました。けれども、家に着き、気づいたことがありました。

痛くなっている脚の部分は、朝、「整体で治してもらっちゃおっかなー」と思っていた部位でした。やっぱり、虫が良すぎるのです、ね。いろいろな面において。

坐禅瞑想で、起きてくることは、性格を映し出す、鏡のようです。(冷汗)翌朝、ストレッチをしながら脚に身髄念をしましたら、午後には痛みはなくなり、今まであった違和感もすごーく軽減していました。

そして、今日は、手続きしたはずの案件が確認できないとの連絡があり、怒りモードではあったものの、相手に怒りをぶつけないように、淡々と説明をしていたのを傍で聞いていた家人が、「よく、怒らないわねー、ワタシだったら怒っちゃう」とつぶやいていました。

無知と怒りのガソリンがたんまり溜まっているワタクシでも、ちょっぴりは浄化しているようですので、これからもお稽古に励んで参りたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。


こんばんは。6日の座禅に初めて参加しました。

最初のお話を聞いただけで、なるほどと思い、今日来て良かったと思いました。午前中のみでしたが、終わった後はすっきりした気持ちでした。また参加したいと思います。ありがとうございました。


6月20日に参加させていただきました。

当初は午後のセッションにも参加をと意気込んでおりましたが、午前中のセッションだけで膝の痛みと睡魔(申し訳ありません)がピークに達し、午後は無理と心が折れてしまいました。

午前中のセッションでは、一つの思いが生じると、いくつも枝分かれして様々な思いにつながっていく心の動きを強引に現在の呼吸に引き寄せる、というご教授をいただいたところまでは、「ああこんな感じでやればいいのかなあ」と私なりの理解で行じておりましたが、第3段階でご教授いただいた、生じてきた「一つ目の思いに意識を集中する」ですとか、「怒り、怒り、怒り、・・・」といったあたりから、要領がわからなくなってしまいました。

できれば再び参加させていただき、もっと理解を深めていければ、また午後の部も参加させていただければと考えております。

昼食につきましても普段はテレビを見ながら食事をしておりましたので、食事に集中しきるという経験は新鮮でした。

ご教授ありがとうございます。また参加させていだければ幸いです。


6/6の座禅セッションに参加させて頂きました。小池さんには丁寧なご指導を賜り、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

初心者指導+食禅で帰るつもりが、何となく午後まで居てしまいました。家では小池さんの著書をお手本にやっと30分瞑想出来るかな、といった程度なのに、初めての参加でこれだけ長時間の挑戦は少々無謀だったみたいです。

最後の方は呼吸に集中するのにも疲れ、何かの刺激に逸れた心を捕まえるのにも疲れてしまい、何というか、グダグダでした。まだまだ集中力が足りないなぁといたく感じさせられた一日でありました。

今日伺ったお話の中では、「ネガティブな思いが生じたとき、それを打ち消すポジティブなツッコミの方が実は問題である」 という内容のお話をされていたのが実に印象的でした。

確かに「あーもー痛いしいやだなあ」と思いが沸いたとき、「いや、そんなことを思っちゃだめだ」と自らを戒める行為は、あまり問題視することはありませんでした。

むしろ自らを鼓舞するような、よい行いであろうと。云われてみて初めて、「そうか、これは、理想と違う自分の姿に対する怒りであるのだな」と気づくことが出来た次第です。

千里の道も一歩から、野球もキャッチボールからと申します。今日教えて頂いたことを心の糧に、もう一度オウチで地道に復習したいと思います。

またお邪魔させていただくこともあるかと思いますが、宜しくお願いします。


4/18に座禅セッションを体験させていただき、ありがとうございました。

今回、ご住職の法話は自分の体験に突き刺さることが多く、迷いや怒りなどの煩悩がはるか遠くに吹き飛ばされ、爽快なることこの上なし!でした。

とくに、瞑想中のありがたいお言葉(指導)を拝聴して、足の痛みも幾分か軽減され、ぼんやりとして霞がかかっていた頭の中が、少しずつ晴れていくのが感じられました。

是非また参加させていただきたいと存じます。そのとき、御指導御鞭撻のほどよろしくお願い申しあげます。


昨日は貴重な座禅のお稽古に参加させていただき、まことにありがとうございました。

「痛い!」と思う瞬間に「痛い」を捉えよ、と今の瞬間を教えていただき、具体的に示していただき、御本に書かれていても、自分では明確になっていなかった禅の本質を垣間見させていただきました。

  小豆玄米粥も大変結構で、満腹中枢は多いにだまされて喜んでノックアウトされました。 帰り道に飲んだコーヒーは脳天の髄まで効いて、帰宅後はせっせと仕事が捗りました。

深く深く感謝申しあげ、またお伺いするチャンスを探っております。今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。


友人と共に参禅するセッションを先日初めて体験しました。 その後の感想などを話し合える事がとても嬉しく、自分の初セッションでの感覚と、友人の初セッションでの感覚があまりにも違う事に驚き、本当に一人一人違うものだなあと実感しました。

もう何度か参禅させていただいていますが、その都度集まる人のエネルギーが個々違うために、一回一回風合いが違う事も改めて感じました。

ご住職の指導の仕方も、合宿やご自身の修行を経ているので、過去のものとは明らかに変わっており、それを発見しては喜んでいます。これからも、宜しくお願いいたします。

セッション参加日のはつらつとした気持ちは毎回感じています。一日穏やかな気持ちで過ごせます。


本日、9時より座禅セッションに参加させていただきました。

15年ほども前、高校生の頃から瞑想をするべく何度も試みたのですが、なかなか邪念に翻弄されてできずにおりました。

それが今回、中休憩を挟みつつも、午後にいたるまでまがりなりにも座禅(瞑想)を出来ましたこと、大変感謝いたしております。

これを機に、自宅でも出来るようにと思っております。昼餉も大変美味しくいただきまして、ご馳走様でした。また、機会がありましたらセッションに参加させてくださいまし。本日はありがとうございました。


2月14日の座禅セッションに参加した者です。お腹が鳴るのが止まらなかった者といえば、思い出していただけるでしょうか…

参禅のレポートを書こうとしましたが、寺のドアを開けた瞬間から、その後の日々の変化まで驚きや発見だらけで,そのひとつひとつを心のままに書いていたら「迷、慢、慢、迷、怒、慢、怒、迷慢怒怒…」と猛毒文章になりそうです。そこでできるだけ心を落ちつかせ、大きなトピックスに絞って書いてみます。

私は今まで書籍などを参考に、1人で瞑想や座禅のまねごとをしたことはありますが、その感想は「けっこう心が落ちつく」「時に、不安感のようなものも生まれる」といった漠然としたものでした。

ところが今回、初めてご指導を受けて、その認識が大きく変わりました。

この日は、まず夢に関する説法を興味深く拝聴し、その後の座禅の第1セッションまでは穏やかに進めることができました。 しかし、第2セッションの途中からお腹がグルグルと鳴り出し、止まらなくなりました。「恥ずかしさ」や「他の人の座禅の邪魔になる」という思いで、廊下に出ようかと迷いましたが、ちょうどご住職の「体に変化が出た人は、それを観察して下さい」というインストラクションが聞こえ、おかげで廊下に逃げ出さずにすみました。

しかし私の心は恥ずかしさや、いたたまれなさで混乱して観察に集中できず、お腹はさらにハッキリと鳴り続けるという、悪循環に陥っていきました。すると又、ご住職から状況をふまえたインストラクションが聞こえてきました。それに助けられ、「三毒を薄めて、ちっとはマシな人間になるんだ」という自分なりの参禅の目的を思い出し、「自分は座禅をするために、今ここにいるのだ」という自覚が生まれました。

すると恥ずかしさや迷いが消えてしまい、お腹が鳴っているのをじっと観察できるようになりました。まるで胃の奥底から次々に泡が湧いては破裂してガスを放出し、そのガスで胃の中が充満しているようです。しばらくするとお腹が鳴るのがゆるやかに消え、静寂さに包まれる感覚が生まれました。(ホッ)

さらにセッション後の質問タイムにはご住職から、「座禅中に体の問題のあるところに異変が出ることもあるが、それは普通におきることだ」といった内容の丁寧な説明を受けて、安心することができました。

また感情にふりまわされないためには、第3セッションで習う「感情を観察する」することも有効だというアドバイスもいただきました。

(ところで今思うと、体に経験したことのない異変が起きたのに、その現象に疑問を持つよりも、「恥だ。ひんしゅくを受けていないか」と他人の目ばかり気にしている自分って…。とりあえず、「あらまあ…」と微苦笑してみます)

さて午後になり、2セッション目は正座で挑みましたが、午前から胡座で座り通しの足でした正座の痛みは、とても苦しいものでした。足をくずそうとも思いましたが,午前の経験を活かそうと痛みの観察に挑戦しました。

正座を続けていると痛みは増し、心は「痛いよう、苦しいようー」と激しくイヤイヤをしてパニックになりそうです。それでも覚悟を決めて、その「痛みの苦しさ」をジジッと観察すると、どうやら「痛い」という現象と、「苦しい」と感じている心は別物だということがハッキリと認識できました。

そこで「痛み」はとりあえずおいといてでも、このイヤイヤと荒れ狂う心をなんとかしなくてはと思い、ご住職の本に書かれていた「イヤイヤは『怒』モード」を思い出し、「怒り、怒り、怒り」と3回ほど「念」を入れてみました。するとあんなに苦しがっていた心がいきなり静まり、凪のように落ちついた状態になりました。直前までの苦しさは何だったのかと、ポカンとするほどです。

さて、心は楽になりましたが、まだ「痛み」という違和感は残っています。 私は今まで「痛み=苦しみ」と思っていました。しかし実際は「痛み」は単なる現象にすぎず、そこから心が違和感や不快感を覚えていき、イヤイヤしだすことで苦しみになるのだなあ、ということが今回の経験で実感できました。

そこで、今感じている違和感からイヤイヤを生み出さないことが肝心と思い、「痛み、痛み、痛み…」と「念」を入れ続けました。しかし、なかなか消えないどころか、違和感が不快感に変化していきました。さらに苦しさが少しずつ心を侵略し出して挫けそうになった時、ご住職の「痛みを観察して消えない人は、痛みに入り込んでみてください。痛みと一体化する感覚です」といった内容のインストラクションが聞こえてきました。

「この激痛に入り込むなんて…」と不安も感じましたが、ご住職を信じて、「差し込む感覚」というアドバイスを頼りに、「痛み、痛み」と「念」を入れながら足の痛みに入り込んでみました。

すると入る瞬間は胸に衝撃を感じましたが、次の瞬間には痛みが霧散していました。あまりの激変に驚くと共に、ご住職が話された「痛みというものは実体がない」ことが実感できました。

参禅後の日常の大きな変化として、私はある行為をする時にネガティブな雑念が次々に出て困っていたのですが、それがほとんど無くなってしまいました。

自分でもしばらくは雑念が消えていることに気づかなかったほど、ないのがあたりまえの状態になっていました。(不思議です!)

今回、ほんの一端ながら「自らの心を観察し,浄化する」ことに触れることができて感動を覚えました。それも、参禅者の心身の状況が見えているのではないかと思えるほどの、ご住職の適切な内容とタイミングでのインストラクションがあればこそ、です!よき指導者のもとで行なう座禅瞑想の凄さを、痛感しました。 今回、ご住職から座禅の手ほどきを受けられたことを、深く感謝します。

またこの日、参禅された皆さんにも感謝します。真剣に取り組む皆さんの存在が励みとなり、怠け者の私でも最後まで真面目に取り組むことができました。


昨日1月10日の坐禅セッションに参加させてもらいました。2回目になります。 ありがとうございました。

小池さんの、「こころのニュートラルな状態に集中することで、生きている実感がわいてくる」(覚え違いがありましたらすいません)という言葉を聞いて、どうしたら生きている実感が持てるのか、ヒントを探していた自分に光が差し込んできたように感じました。

さっそく実践だ、と坐禅に取組むのですが、しばらく呼吸を観察していると、そういえばあの人に早く年賀状の返事を出さなくては(心配)、同居人はなんであんなこと言うんだ(怒り)、 等々 すぐにあちこちにさまよってしまいます。ハッと気が付き、あぁ呼吸の観察だったと、しばらく呼吸を観察していると、イテテ 足が痛い… よし痛みを観察だ、痛み 痛み… あっ痛みが小さくなってきた。よし、呼吸の観察にもどろう。あぁ…なんだかお腹がすいてきたな〜 ハッ呼吸の観察だった!と、ニュートラルな状態に集中するというのは、なんと難しいことか…と実感しました。

セッションが終わり、なかなか集中できなかったなぁと反省していましたが、自宅への帰り道は、頭やこころがスッキリして晴れやかな気分になり、集中できなかったけれども、坐禅をした効果は確実にあるのだなと感じました。

また坐禅セッションに参加して、少しずつこころのニュートラルな状態に集中できるようになりたいと思いました。


12月末のセッションに参加させていただきました。凛とした雰囲気の中、流れる時間の感覚がいつもとずいぶん違うと実感いたしました。住職のお言葉で自分の内面の見つめ方が全く新しいものになり、目からうろこがおちた気持ちが致します。有難うございました。またこれからもご指導下さい。


坐禅セッションに参加させて頂き、2週間が過ぎようとしております。自らに起こりました変化といたしましては、「あちらこちらに彷徨う思考を、今この瞬間に意識して引き戻すことができる頻度が増してきた」ということでしょうか。色々なものがそぎ落とされ、シンプルに向かいつつあるような感じもあります。

私はカトリック信者ですが、小池ご住職のおっしゃる「仏道的」諸方式がしっくりと心に収まります。「月読寺」という凛とした空間にもとても好感が持てました。

なかなか胡坐をかくのが難しく殆ど正座で過ごさせて頂きました。痛みが強い場合は適宜体勢を変えてよいとおっしゃって頂けたので良かったです。かねてより「いつか指導を受けてみたい」と思っておりました坐禅というものを体験できたことは、私にとっては大きな収穫になっていると思います。


もう三ヶ月も前のことですけれど、今年の九月に、はじめて坐禅セッションに参加いたしました。

月読寺ではすべての時間がゆったりと流れているように感じられました。ご住職のおもてなしの心に癒され、参禅者のみなさまからは、凛としたものが伝わってくるように感じられました。

坐禅の最中には「足が痛いよー」ということをたくさん考えてしまいましたが、終了後は、穏やかで安定した心持ちになり、頭の中がシャッキリしたような感覚を味わいました。

帰りの道中、一緒に参禅したお友達と、「お互い人相がよくなったような気がするね」と言い合いました。

終了後に最後まで残って、直接ご住職に声をおかけしました。ご住職はきっとお忙しい仲、坐禅セッションのご指導の際と同様、ゆったりと相談にお応えしてくださいました。感謝の気持ちでいっぱいです。

しかもその相談の内容を私は「寺子屋」のコーナーにも投稿させていただいていたのです。にも関わらず、サイトでは選別されたものにしかお応えしておられないのかな?と早とちりして、結果、二度、おなじことをお訊ねしてしまったのでした。帰宅後、サイトの方で既にきちんとお返事をいただいていたことを知り、うひゃあーっとなりました。恐れ入ります、の気持ちでいっぱいです。

ご住職はもう忘れ去られていらっしゃることと存じますが、その節は、たいへん恐れ入りました。そして、わかりやすく丁寧なご指導を、ありがとうございました。

言わましたアドバイスを指針に生活していましたら、当時の心配事はすこしづつ解決してゆきました。 これからもご住職のご著書と、家出空間のトピックを参考に禅を生活に取り入れ続け、精進して参りたい次第です。


三度の参禅をしましたが、毎回違う味わいで受けております。

やはり、自宅と月読寺では空気感が違いますね。自然と坐禅へのやる気をもらって出来ます。出来る限りであの場へ通い、その時ならではの味わいを楽しんでいきたいと思います。

洋服に染み付いたお線香の匂いが残っているうちは、新鮮な効果も残っているような気がします。


百聞は一見に如かず、実感いたしました。

思わずいちごや焼き鳥を買ってしまいそうな商店街を抜け、みつけた月読寺満月坐禅は仕掛けがいっぱいでした。

さ迷い放題な心を野放しにしておくことの危険性、坐禅中、さまよいの心をすばやくキャッチする具体的な御住職のタイムリーな御言葉、時間の感覚がなくなる不思議---自分自身が畳か壁に同化したような、表現が難しいです---参禅後、じわじわと効いてきておりますのは、物欲がするすると落ちているようです。

御住職のお経は歌のようでもありました(古代の仏教の原語のようなものでしょうか)精進してどのような変化が訪れるのか。またご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします。


自分がどれぐらい、欲望のとりこになっているか、かくしていた怒りがたくさんあるか、頭でうすうす分かったつもりになるのと、肌で感じるのと、こんなに違うのかあ、って驚きました。

わかってた、と思ってたんです。最近、頭で自分の事を考えるようになって、そうか自分がいつも悩んでいたのは、欲だらけだからか、って。でも頭で考えているうちは、認識して、満足してました。

それが、あ、ほんとうに、捨てよう、そう思えるようになった。

正直言って坐禅はつらかった、です。4回目のセッションぐらい、とくに。体中がいたくて、座ってられないような感じがして。

でも、それを「いたいいたいいたい!」ってすぐに言葉にしちゃわないで、じっと見ている、最後のセッションで。いままで自分が味わって来た最高の瞬間を、自分のからだひとつで、味わうような感じ、がありました。すっごく嬉しかったです。自分が夢中になっているその瞬間が、まだ2回しか味わってないその最高の瞬間が、こうやって身一つで、日常に交差していける。

変わりたい、というと簡単でなんかあいまいなんですが、自分をそぎおとし、研磨していきたい、そのためにはこうやって行動しよう、気がついたら行動がさきに出るようになってきました。思考と行動の結びつきのペースが早くなった。

なんか自分を憎む様なことがしたくなったときも、その日の光景がなんとなくよみがえって、すっと離れることができるような、そんな日々です。有難うございました。


昨日は本当にありがとうございました。

小池さんの本を購入いたしまして、自分で座禅をしようとしても今ひとつ理解できなかったところがクリアになったように思います。 ただ、座禅から食事禅と実際に受け、あまりにも毎日の生活との違いが少々辛くもあり、やはり修業なんだなあと思いました。 そして、無意識で行動するって実は楽なんですね。とても有意義な体験でした。

禅についての質問があります。途中、背中の痛みがとても気になりましたが、説明のように、痛みに集中しそれを受け止めました。すると、ふっと軽く痛みがなくなったのですが、しばらくすると再発。 それを何度か繰り返しました。

背中の痛みはここ数年、ずっとある慢性的なものです。 これは根が深く、何度か繰り返さないと取れない痛みなのでしょうか? それとも、まだまだやり方?が悪く、ふっと軽くなったのは気のせいなのでしょうか?ご迷惑でなければ、教えていただければ幸いです。

食事禅のスープはとても美味しかったです。 私は肉・魚を食べず、味噌が大好物なので、あのようなスープを本当に美味しく感じます。ただ、私にはあまりにも量が少なかったのですが、小池さんは毎食、あの量なのでしょうか? すごく気になりました。興味本位な不躾な疑問で申し訳ありません。 答えが欲しいわけではなく、単なる感想とお受け止めください。
A:軽くなったのは、痛みに純粋に集中できていた念の力によって問題が確かに、いくらかなりとも解決していたのです。 しかしながら、途中から「治したい」といった欲望が入り込んでしまったため精神統一が崩れ、うまくいかなくなったとおとらえください。 「治したいッ」といったような気持ちは雑念にしかなりませんから、忘れなければなりません。

なお食事量に関しましては、初心者がお腹いっぱい食べると昼食後の座禅で眠ってしまいますので、セッション時は少量にしています。 普段私は、あれよりは多めに食しております。


今日は坐禅セッションに参加して非常にスッキリした気持ちになりました。ありがとうございました。

座禅中に集中力が途切れかけてくると、御住職の御言葉がこころに染み入り、噛み締めながらまた座禅に取り組むという素敵な時間でした。

御住職の著作で読んだいろんなことが身体で感じられて良かったです。また参加したいと思います。


普段の生活においても、徐々にですが、禅の効果があらわれはじめたようです。 以前のように疲れすぎることも減り、心の監視もほんの少しだけできるようになった気がします。

本当に役立つ実践的なご指導をしていただき、深謝いたします。どうもありがとうございます。


玄米粥のレシピを教えてくださって有難うございました。家で作って食膳の復習をしましたところ、2キロ痩せました。体脂肪率も3%下がりました。

「30回噛む」などと数をカウントしなくても舌の動きに意識を集中することで30回くらいは自然に噛むことが出来ていますし、おまけにしっかり味わって食べることができるので、量が少なくてもとても満足感があります。薄い味付けのものをとても美味しくいただけるようになり味覚も変化したようです。

坐禅セッションの後は、一杯のお茶、食べられることの有難さをしみじみ感じることができます。 坐禅セッションに参禅させて頂いてから生きる意欲が湧いてきました。ご縁をいただけましたことを心より有難く思っております。


満月の夜の坐禅セッションは、一生忘れられない思い出となりました。 そして毎回、適確なご指導に感謝しております。 目を瞑られて、じっとしているお姿を拝見する度、何かこちらの心と頭の中を読み取られている様で、やや落ち着きませんが・・・(笑)。 (いえ、絶対に全てお見通しだと確信しております!!)

「目標」についての問答を致しましたが、小池御住職の(あっ、本来は何とお呼びしたら良いのでしょうか?うっかり師匠と言いそうになるのですが・・・)

お言葉を一つ一つ消化しながら、覆い隠されていた本心が明確になった様です。お花の先生として、指導者として自分はふさわしくない、自信が持てないという弱気な心が浮かび上がってきました。 でもそれは、勝手に自分で味付けした料理であって、「こんな先生になりたいのに!」という、欲望だったのだと気付きました。

禅を通して、様々な気付きを頂きました。 それは「頭で知る」ではなく、「心と身体で感じる」の深い部分です。 集中の先にある「空」の心地よさとは、全てに通じる事なのですね。 仕事もコツコツと積み重ねる事により、ある時点でふっと「空」を得る。

スポーツでも勉強でも、あらゆる分野でその精進があるからこそ、更に前に進み新しい「空」が見つかる様に解釈いたしました。 これからの私の目標は、この気付きを大切にし、又更なる精進をしつつ花を通して人々に「家出空間」を伝える事です。 日常からの家出をしたくて花を習いに来る方々、花によって癒される方々のサポートをするのが私の仕事だと改めて思います。

先日の坐禅セッションで感じた事をお伝えします。 集中が途切れそうになった時、心が乱れた時、苦しい時・・・どんな時でも呼吸に意識を戻すという事。これは人生のベースキャンプを得た思いです。

様々な困難はあっても、自分の力で解けない問題は人生には現れないのなら、まずはベースキャンプに一旦戻り、どのコースからアプローチするのか冷静に策を練りつつ、心と身体の調整をする場を得た様な、心強さを感じました。

この呼吸の一つ一つが私という小宇宙を動かしているという感覚がなんだかうれしいという以上の大感謝と、そして私は「生きている」のではなく「生かされている」という気持ちがわーっと湧き上がってきてなんだか泣きたくなってしまいました。 こんな気持ちは初めてで、どう説明してよいのかわかりません。これからも淡々と呼吸に意識を向けつつ、新しい人生の宝物を一つ一つ見つけて行こうと思います。
A:「師匠」でも「住職」でも、何でも良いですよ。(にっこり)


10月18日に参加させていただきました。今回もたくさんのご指導を賜り、どうもありがとうございました。 今回はとくに、食禅!と思いました。禅の技法を応用して食事をいただくということをすっかり忘れてしまうのです。「そうだ食禅なんだった」とハタと気づく始末でした。また出直します。

10月のお誕生日のかたが2名いらしたとのことで(そのうちの1名です)、おめでとうの儀式(名称がわからず恐縮です...)も執り行ってくださり、本当に嬉しく思いました。どうもありがとうございました。

これまで坐禅会のイメージは、厳しそうとか棒でペシッとかいったものだったのですが、月読寺での坐禅会はとてもあたたかくて和やかな空気で、心地よいなと感じています。

それから「?」がいくつか出てきましたので、ご質問させてください。

Q1:坐禅、立禅、歩行禅、食禅、と色々種類があるんだなあと知りましたが、他にもあるのでしょうか。横になって禅、もあるのでしょうか。

Q2:坐禅中、ぐわーんと幸せな気分になりましたが、楽が生じているということなのでしょうか。 また、全てが苦であるそうですよと思うとき、エーそんなの大変と頭で解釈している自分がいますが、それは反発のエネルギーなのでしょうか。恐れ入りますがご教授いただければ幸いです。
A1:ええ、眠る前には、横になっての禅もあります。横になっていても会話中でも遊びながらでも仕事中でも電車の中でも、いつでも禅はできるのです。

A2:ええ、それは「楽」の一種で、坐禅が進んでくると出てくる「喜悦感」というものです。 それが出て来ましたら「喜悦、喜悦、喜悦」などと念じながら、徹底的に味わいつくしてください。

この喜悦感が出て参りますのは、自らの中にストックされていた強烈な苦しみの結び目が解き放たれて消滅いたしますときに、 その苦しみが消滅してエネルギー転換されて、喜悦感が感じられているのです。すなわち、この喜悦感すら、苦しみが減ることにより感じられる錯覚に過ぎません。

そしてそれを理解して更に先へ進んでこそ、さらに強烈な喜悦感や安楽感に出会うこともできる道理です。「全てが苦」と体得すればするほど、ハッピーさは増すというパラドックスと申せましょうか。 そう、「えーそんなの大変」が出てくるのは、最初のうちはごく自然なことではありまして、それは反発のエネルギーです。


見渡すところ、最年長ではありましたが、禅は全くの初体験なので、おそらく、禅の境地からは最も遠いところにいたのではないでしょうか。

体力的に、午後の部まではとても保ちそうにないので、食禅のあとで、失礼させて頂きました。

ところで、我が家では、自家用に僅かながら米作りをしております。 実りの秋となり、今年も新米の収穫の時期となりました。食卓に新米がのぼるのにはまだ少し時間がかかる(天日干しに約1ヶ月程度かかります)のですが、実は昨年の玄米が少々余っております。

一応、籾から挽きたてのコシヒカリ玄米で、手間暇だけは充分かかっております。

余り物で誠に恐縮ですが、ほんの少々喜捨させて頂きたく、本日、発送致しました。

座禅セッションですが、できれば再チャレンジしたいと考えております。時期を見て参加させて頂きたいと思っておりますので、今後ともご指導のほど、よろしくお願いします。


15日の満月の座禅セッションに参加させていただきました。

2回目の座禅ということと、昼間とはまた違った雰囲気のなか前回より集中できたように感じまし た。座禅の途中どうにも息が苦しいというか、胸の辺りで気道が圧迫されているような感覚がありました。

大きく息を吸い込みたくなったところ、そのような状況にぴったりのご住職の指導の声が聞こえるではありませんか。早速苦しく感じるあたりに意識を向けるとだんだんとその圧迫感が息の通り道に沿って上へと移動していき喉の奥の辺りですっと消えていき、その後は息苦しさを感じることもなく座禅を続けることができました。

今回は初心者指導のみの参加でしたが、ずっと座っていただけなのになんだか体が運動後のようにポカポカしていました。家でも少しずつ座禅の時間をもつようにしているところです。4コマセレクションの出版楽しみにしています。


説法をお聞きしたく思い、満月坐禅会の初心者セッショから参加させていただきました。熱心にメモを取っているかたも数人おいでになり、皆様の真剣さ がピリピリと皮膚に触れるように感じました。まさに「寺子屋」ですね、一所懸命な「生徒」達に説法する「先生」の御声は活き活きと楽しげで、変幻自在に広く細かく、そのお話は私達を導いてくださるのでした。

満員の月読寺の空間を体験するのは初めてゆえか、人に酔ったのか、薄闇に隠れるように中座いたしましたが、後半の坐禅セッションが始まる頃に見上げた夜空には見事な満月が厳しくも微笑んでいて、なぜか感謝の気持ちが湧いてまいりました・・


本日は座禅セッションに初めて参加させていただき、ご指導いただきましてありがとうございました。当方、股関節に少々難ありで、きちんと座ることができず申し訳ありませんでした。

セッションを受けて経験したこと少し書かせていただきます。 長年にわたって多くの怒りをため込んでまいりましたが、今年2月に大学院にて学内抗争に巻き込まれ、そのあおりでアカデミックハラスメントを受け、という中、自分が ばらばらにならないようにという防御のためでしょうか、からだも心もがちがちに縮こまっておりました。

正定からはほど遠い未熟な取り組みであったかと思いますが、ご指導いただいて、非常に深い呼吸ができたようで胸の辺りがゆるみ、穏やかな心持ちになりました。 自分の中にためこんだ怒りが出てくるのかしら、と思っておりましたが、そういう気持はほとんどわき上がってくることなく、かわりに? セッション中、ものすごく沢山の風景を見ました。今まで旅行でいったところ、忘れていたようなこと、私にはこんなに豊かなことがあったのか、と感慨深く思いました。怒りで強張る中で、このような思い出もすっかり閉じこめてしまい、見失っていたようです。色彩が戻ってきたような感じ、とも申せましょうか、そんな有り難い感覚を味わっております。それが、禅として正しかったかは分かりませんが。

一方で、怒りについてもビビッドになって参りました。でも、その怒りが、穏やかな気持ちと、私の中で不思議な同居?をしているので、何だか面白くて不思議です。 私が上記のような目にあいましたのは、ひとえに私の悪業のため、ということになるのかと思いますと、正直、今の私は、かなり辛く感じます。でも、本日体感させていただいた身体感覚を信じて、少し自分を見つめていってみようと思います。 今後ともよろしくご指導下さいませ。


初めて「初心者セッション」を受けたのは、今からほぼ一ヶ月前のことでした。

慣れない姿勢から生じる足の痛みや、次々と沸き起こる雑念の量に圧倒され、「ただひたすら呼吸を追う」だけのことがこんなにも難しいとは…と衝撃を受けたことを覚えています。

とはいえ、「集中することのおもしろさ」と「心のスッキリ感」にすっかり味をしめ、それ以降もセッションの参加のほか、自宅でも坐禅を行い、自分と向き合う時間を作るようにし始めました。

いざ続けてみると効果はテキメン。坐禅を「した日」と「しない日」とでは「心の凪度」が確実に違うのです。また「集中」をコントロールする訓練は日々の生活にメリハリをつけられ、いろいろなことの「効率」が上がったように感じています。

そんな良いことづくめのセッションの中でも特筆したいのが「食禅」です。 少量の粥と漬物をゆっくりと丁寧に味わう。ただそれだけのことですが、口に含み、眼を閉じて、舌の動きに注目しながら集中してしっかりと食することで、じわりとした味わい深さが得られることを知りました。

また、強い衝撃を受けたのが、「器やスプーンを持つ手の感触、重さ、口あたりなどの全ての感覚を、食べものと同等に味わい尽くす」ということでした。それまでの自分にはない発想でしたが、とても好ましいものに感じたので、すぐに生活に取り入れたいと思いました。

丁寧にその動作のひとつひとつを行い、「念」のセンサーを張りめぐらしながら、食べ物だけでなく、それらにまつわる全てを味わう。

なんとなくつけていたテレビを消して、ゆったりと「食事」だけに集中してみたところ、いかに味わって食べていなかったか、いかに勢いに任せて食べていたか、を知ることができました。

このように「食事」を丁寧に扱うことは精神的にも満たされ、ゆっくりといただくことで「足るを知る」ことができ、少量でも高い満足感が得られるようにに感じています。

その効果は絶大で、なんと食禅は「ダイエット」にも効果が。はじめて10日でマイナス4キロ。特にダイエットを意識してはいなかったので、一体どこまで減ってしまうことやらと一時は心配しましたが、結局、一ヶ月経った今は少々戻ってマイナス3キロを維持。やはり精神的に落ち着くことのメリットは大きいですね。

いろいろな発見がある「坐禅」。ご住職が貫き、体現している「美学」。それらの全てを味わうことのできる「坐禅セッション」。これからももっともっとその魅力を感じていきたいと思っています。


10月4日に参加させていただきました。

初めての座禅体験だったのですが、「我慢比べではないんですよ」、「座るのがつらいひとは立ってもいいんですよ」、「足が痛い人は、5分ほど歩いてくるといいですよ」といった住職のお言葉があり、「つらくなっても自分の出来る範囲で頑張ればいいんだ」という心持ちでのぞむことができました。そのことがかえって、「集中すること」と「平常心を保つこと」に専心することができたように思います。

ただ、「我慢比べではないんですよ」という住職のお言葉があったにもかかわらず、負けず嫌いの私は「ぜったい最後まで座るぞ!」と思い、足が痛くなるまで最終セッションを頑張ってしまいましたが・・・。

また、座禅というと、体がぐらついたりしたら棒で「ぺしーん」とたたかれるイメージをもっていたのですが、「どのような意識をもって呼吸を感じればよいのか」ということについて、住職が適時に(本当に適切なタイミングで)誘導していただいたので、自然に集中することができました。

第2セッションになると、発汗したり、体が自然に震えたりという明らかな変化も見て取ることができました。

そして、食禅のときにいただいたお漬物が、しっかり味わうと、ものすごく塩辛かったことに驚きました。集中した状態で食べると、本当に風味がわかるんだなと実感しました。

座禅が終わった直後は正直なところ「すがすがしい」という感覚を得ることはできなかったのですが、数日経ってみると、いつもに比べて気持ちが軽やかになった気がいたします。


先日は夫婦と子どもで座禅を指導いただきまして、誠にありがとうございました。私にとって2度目の座禅でしたが、とても学ぶことが多かったです。

御著書を読んで、意識のセンサーを意識するようになり、そういえばふだんずいぶんいろんなところに意識のセンサーが飛び回り、集中力が妨げられ、仕事や行動の能率が落ちていることだなぁと思っていたのですが、座禅によってそのことがさらによく分かるようになりました。

妻は、座禅中に子どもがずいぶん動いていたようで、子どもも何か感じていたのかもしれません。

1度目の座禅は、禅宗のお寺で体験させていただいたのですが、そのときはかたちについての指導だけで、座禅をしながら意識をどのようにコントロールすればいいのかまったくわからなかったので、漠然とした座禅でした。

今回は、言葉での指導をいただきながらでしたので、ステップアップするのがわかってとても興味深かったです。途中の質疑応答の時間も、よい時間でした。

全体を通じて「よりよく生きるための方法としての仏教」というメッセージが発せられており、仏教に対する認識を変える力を持ったプログラムだと思います。


生まれてはじめて坐禅に参禅しました。忙しなく雑然とした日常とサカサマな雅な空間にたじろぎましたが、丁寧にご指導頂き、説法リクエストにもお応えいただきましてとても学び深いひと時となりました。思い切って参禅してよかったです。ありがとうございます。

坐禅セッション中に膝が痛くなりましたが、ご本にありました『頭・喉・お腹が痛いときの身随念』を思い出し、膝の痛みの中に入ってみることを試みました。すると痛みを感じるどころか、とても不思議な心地よさの中に居ることができ、膝の痛みから意識を離すと痛みを感じるという面白い経験をしました。

それから毎日短い時間ですが復習を続けています。坐禅セッションの時のようにはいきませんが、それでも1週間後、走っても膝が痛くならないことに気づきました。嬉しい驚きです!それに姿勢も良くなった気がします。

ところで、もし差し支えなければ、食禅で頂きました玄米とピーナッツの御粥のレシピをお教え頂けませんでしょうか?

私は玄米を食べると疲れてしまうので玄米食は諦めていたのですが、食禅で玄米の御粥を頂きました時は、身体の内側からエネルギーが静かに沸いてきて意識も身体もシャキッとするような感覚を感じました。自分でも作って食禅の復習もしたいと思っています。

これからも禅のお稽古を続けて参りたいと思っております。宜しくお願い申し上げます。

A:確かその日はピーナッツとうずら豆も入れていたように記憶します。 まず、丁寧にといだ玄米とピーナッツ(できれば生のもの)やうずら豆を適量ほど土鍋に入れ、玄米1に対して水10程度の比率で中火にかけます。

沸騰した時点でとろ火にし、自然海塩を一つまみ加えましたら、フタに栓をして1時間〜1時間15分程度といった風合いです。


はじめての座禅でまた16時までの長時間でしたが、時間が経つ早さに驚きました。足が痺れてきて体勢をコロコロ変える未熟者ですが余計な事を考えない気持ちよさを少し味わえたような気がします。

「東京で座禅する」と周りの人に話しますと、料金がお布施なんておかしい、アパートの一室なんて危ない、きっと洗脳される、壷買わされるといろいろ言われたのですが、ご本を拝読し想像していたような雰囲気のお人柄、場所でしたので安心しました。

私は京都在住でなかなか東京へは行けませんので、一人で家で座禅をする場合のアドバイスなどごさいますでしょうか?
あっはっは。さて、進捗状態によってアドバイスすべきことは変わりますが、始めたばかりの頃は以下のようなことに気をつけられてみると良いでしょう。

(1)自分はどれくらいの時間坐禅を続けられるのか大まかに試してみて、次回はそれよりもほんの少しだけ長めにタイマーを設定して、その間は何があっても途中でやめませんこと。途中で投げ出す癖がつくのを防がねばなりません。

(2)自宅だとどうしても余計な気になる雑事のことが思い浮かんで途中でやめたくなってしまいがちです、坐禅を始める前に雑事は一通り済ませておきましょう。

(3)「集中」にばかり気を取られ力むことなく、リラックスした平常心を保てているかどうか、ときどき自らの心にセンサーをあててチェックいたしましょう。


27日の坐禅セッションでは、ご指導頂きありがとうございました。

長い時間、目をつぶっていたら寝てしまうのではないか…と心配していたのですが、坐禅が終わって目を開けた時に寝ていたわけではないのに、すっきりとしていたのが不思議でした。

ご指導頂いた内容を完全には理解できていないのですが、「禅的」な考え方にもっと触れてみたいと思いました。 10月18日9時からの初心者セッションに参加させて頂きたいと思います。また、よろしくお願いします。

坐禅とは関係のないことですが、説法などのお話の仕方(スピード、間の取り方、言葉の選び方など)がとても上品で素敵だなと思ったので、仕事(接客)中の言葉遣いに参考にさせて頂きました。新しい本も手に入れたので、毎日の生活も少しずつ変えていきたいなと思っています。



9月27日の坐禅セッションに参加させていただき、ありがとうございました。

時が止まっているような、いつもと違うゆったりとした贅沢な時間を過させていただきました。

丁寧なご指導を頂き、お蔭様で初めての坐禅体験なのに、すんなりと入っていくことができました。

坐禅中は、足や腰が痛くなったり、雑念が湧き上がり集中する事も難しかったのですが、終了後は不思議と爽快感のようなものが感じられ、帰宅してからも、また座りたいなーと思うようになりました。

就寝前に、教えていただいた事を思い出しながら、短時間ではありますが、坐禅をしてから横になっていますが気持ちが落ち着くようで、今までよりは寝付きも良いような気がします。ありがとうごさいました。


9月20日の坐禅セッションに参加させていただきました。今回もご指導を賜り、どうもありがとうございました。

当日の朝、体調不良をおこし、午後より参加させていただきたい旨ご連絡いたしました際、大変ご親切に対応いただき、とてもありがたく思いました。 そして、お坊さまはいつ寝ていつ起きていらっしゃるのだろうと思いました。午後、豪徳寺から向かう道で、偶然お坊さまにお会いしました際も、颯爽と自転車に乗っておられ、お優しく且つキリリとお話くださり、私も少しでもお坊さまのような振る舞いが出来るといいなあと思いました。自転車に乗れるようになるところから始めます。

さて、坐禅セッションですが、いつもは初心者指導から参加させていただきますもので、午後の3時間ほどは短く感じました。

まだまだ坐禅に慣れておりませんので、普段の状態から離れるまで時間がかかり、なかなか自覚や集中といったところに至ることが出来ませんでした。

からだを分割してそれぞれの感覚を味わう作業も、前回より難しく感じました。ただ、からだは本当に忠実に、与えられた役割を淡々とこなしてくれているんだなあと感じ、それがありがたく、なるべくいじめないで過ごせるようになりたいと思いました。

何度か参禅させていただいて、「やっぱり禅って何?」と思っています。わかろうと思ってはおらず、何か得たいとも思っていないぶん、初心で取り組もうと思えてよいかもしれませんが。 わからないなりに、学んでいきたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。ご指導いただき、どうもありがとうございました。



いつも温かいご指導をありがとうございます。 満月座禅セッション後、龍之介さんとお話をさせていただき、心身共に穏やかになり、家路につきましたが、途中、吐き気が登場してきました。

昨夜は、突然、熱と鼓動の速さを感じたものですから、仰向けになり呼吸に集中していましたら、そのまま眠ってしまい、こんな夢をみました。

月読寺で座禅をしていましたら、自分の上半身が、おじぎ草のようにゆっくりと、何かに誘導されるかのように、倒れていくことに気付き、驚き、何か言葉を発したようです。すると、龍之介さんが「大丈夫ですよ」とおっしゃっていましたよ。私はそのまま身を委ねていましたら、心地良い温かさに包まれながら、自分の体が融けていくような、一まとまりになるような感覚を味わっていました。

ここではっと、夜中に眼が覚め、謎の涙にも気付き、ちょっと気味が悪いね、と思いつつ、再び眠りに入りました。

いつかの座禅合宿にご参加なされた方の感想文から、夢にも着目したご指導をなさっていたように察知しましたが、仏道でも、夢への見解などあるのでしょうか。

A:禅により意識が今まで見えなかったところまで見渡せるようになりました結果、過去の業が活性化してきて、身体レベルで浮かび上がり浄化されてゆきます。

吐き気も熱も鼓動の変化も、そのプロセスにおいて浮かび上がっては消えてゆくものです。 それらは人それぞれの弱点をついて出てくるものなのですが、自らが過去に為した行為を追体験している、ということにほかなりません。 それらを拒絶して嫌がることなく迎え入れ、徹底的にただ「見守る」立場に留まることによって受け流してください。それにより過去の結び目がほどけ、書き換わります。

自らがこれまで「見ないこと」にして潜在意識へ沈めていましたものが次第に見えるようになって参ります中で、夢もまた活性化いたします。それらの不快感も夢も、そういったものを一つ一つ拒絶せずに、丁寧かつ自覚的に迎え入れ洗い流してくださいましたら、大きく成長することができるはずです。

今が正念場と心得られて、乗り切られてくださいますように。

夢についての統一的理論は存在しないのですが、禅をすると夢見が活性化するのは事実です。タイで修行をした折りの師匠が夢について詳しく、夢についてはこの師匠から多くを学んで、時として利用するようにしております。


9/15十五夜座禅セッション(後半のみ)に参加させていただきました。 座禅会自体はもうかれこれ4度目となりましたが、十五夜には初参加でした。

夜の闇の中に浮かぶキャンドル、薄ら見える御住職の表情、昼間とはまた違う顔を見せる月読寺、全てが素晴らしかったです。

今思えば正に「夢か現か幻か」というような表現が正しいのかも知れません。下世話な表現かもしれませんが、ロマンティック、といえば良いのでしょうか。

隣に愛する人がいれば、愛の告白をしてしまうかも、です。 また、御住職がおっしゃっていた、「参禅者の皆さんが持ち寄られたキャンドルホルダーが申し合わせた訳でもないのに赤・青・黄の三原色となっている」というお話もとても味わい深いものでした。

惜しむらくは終わったと勘違いして、初心者セッションの途中から入室してしまい、他の参禅者の皆様のお邪魔をしてしまった事です。この場をお借りしてお詫びしたいと思います。申し訳ございませんでした。

座禅としては夜の帳も手伝ってか、以前よりもさらに深く入って行けたように感じました。 特に右掌・左掌・口と鼻の間の3点に交互に集中するパートでは、掌に流れる血脈の一部や温度、空気感を深く感ずる事ができ、御住職のおっしゃる「意識を集中し、感じ、味わい尽くす事によって存在させる」という意味が実感を伴って理解できました。

回数を重ねるたびに発見と驚きが大きくなるようにも感じます。これからも引き続き学ばせていただきたいので、今後ともよろしくお願いします。


昨晩はお世話になりありがとうございました。

月読寺のあたりは秋の虫の種類の多さにまだ自然が残っていることと思いました。 (こちらでは聞かない虫の音がありました。気がつかないだけなのか?)

さて、最後の言葉「・・・骨の髄まで腐っている・・・」はどこかに書いてありますか。読むことが出来るのなら出典元を教えて下さい。誠のこと、肝に命じて生きていくことを感じ入りました。
A:「三宝に帰依する偈」というものです。以下に記しておきましょう。

大海のごと 智慧のはてなき仏陀に礼し奉る よろづ 生きとし生けるもの 幸せであれ安穏であれ この肉の身は不浄にて骨の髄までおぞましき 生あるものは崩れはて我も確かに死に至らん

善逝の説かれし 法に礼し奉る よろづ 生きとし生けるもの 幸せであれ安穏であれ この肉の身は不浄にて骨の髄までおぞましき 生あるものは崩れはて我も確かに死に至らん

牟尼王の声聞たる 僧団に礼し奉る よろづ 生きとし生けるもの 幸せであれ安穏であれ この肉の身は不浄にて骨の髄までおぞましき 生あるものは崩れはて我も確かに死に至らん


9月15日の満月の日に2回目の参加をさせていただきました。ご指導ありがとうございます。

前回は足が痛くて痛くて、あまり集中できませんでしたが、今回は。。いえ、実は今回もやはり足が痛くて。とほほ。な感じであります。

でも前回と少し違うのは、ほんのちょっとだけ痛みを客観視できかけたような気がすることでしょうか。痛む人になるのではなく痛みを観察する人になるのですよ。というお言葉が、ストンと入ってきました。

でもやはり、痛みにアブラ汗を流しながら、終わりの鉦がなるのをいまかいまかと待ち構え、鉦が鳴った瞬間には、こころの中でナニモノかが小躍りしておりました。

いまのところ初心者セッションで息切れしてしまうのですが、いつの日か次のセッションまで通しで参加できるとよいなあと。ゆっくりやってみようと思いました。

あ。この感想文、まだ参加されたことがない方がお読みになったら、どれだけ辛いのか!と思ってしまいそうですね。たぶん足の痛みは個人差だと思います。わたしは、もともと痛みに異常に弱く、感情的になりやすい傾向があるようです。なのできっと多くの方はそんなに辛く感じないのでは。と思いますですよ。


先日は、前回の満月振替日に行われていた、身体の皮膚感覚を順に追ってゆくという課題を出されませんでしたね。

私はその課題の指導中、小岩の上に配置された深緑色のクリアファイルの中から五線譜が流れ出て眼前に舞い上がってくるという映像に囚われておりましたが、それを映像だと認識出来ずに、雑多な空想や雑念だと思い込んでおりました。

一所懸命身体感覚に追いつこうと必死になるもののまるで皮膚を実感できずに焦ってしまい、躍起になって怒りで身体を熱くし、映像を押し込めようとして餌をやってしまっておりました。

今回、未熟な自分にとりましても順、数や速度を要求されないメニューでありました事を、大変有難かったと思っております。(本当は、こんな考えではいけないのでしょうか。)

最後にひとつ、質問をさせて頂きたいのですが、私は普段より椅子に座っているのも、正座、胡坐や趺坐を組んでおりますのも不得手です。体重のかけ方が悪いのか身体が歪んでいるのかは分かりかねますが、膝関節が痛み出したり、坐骨に沿って敷かれている臀筋が軋み出して、椅子でも床でも常に姿勢を変え続けたくなり、普段はそうしております。

座禅指導では一時限目の終了時頃から辛くなり、様々脚の組み方を変えようとも膝は曲がり続けているために常に痛み続けております。老人のような質問で恐縮ですが、膝や坐骨の痛みを少しなりとも避けられるような座り方などがありましたら、お教え頂けませんでしょうか。それともこれは皆が体験している事であって私の我慢が足りないだけであり、意識を向ける対象とした方が宜しいのでしょうか。
A:おやおや、我慢大会になってしまわぬよう、気をつけられてください。 念の力が微弱なうちから足の痛みに立ち向かおうといたしましても、なかなか難しいものです。

「痛みが気になって仕様がない」という具合になり姿勢を変えてもなおつらいようでしたら、身体感覚に自覚的であることは続けながら静かに立ち上がって、 立禅に切り替えられるようにされては如何でしょう。他の参加者は皆、目をつむっているのですから、立っても恥ずかしくはありません。

以下は、蛇足です。 御自身の中で湧き上がってきたカルマの衝動エネルギーが作り出している目の前の幻覚に惹き込まれることも、反発することもなく、「映像、映像、映像、映像よなあ」と受け流しましたら、 その心のエネルギーを昇華させて悪業を解消することができるという道理です。


先日座禅セッションに参加した者です。先日はありがとうございました。本当に沢山のことを学ぶことができました。 座禅をしているとき、なかなか理解ができずにいました。なんでだろぉ?呼吸ってそんなに大事なのかなぁ?って。

先日、テレビを見ていて小児科医師のドキュメントをみました。それは、呼吸すら、座ることすらできなかったり、今を一生懸命生きる子供達でした。ショックでした。

そんなことで比較したらいけませんが、私はありがたみを何にも持っていなかったんだなぁと反省しました。明日が来ることが当たり前、小さなどうでもいいストレスで感情を流され、イライラしたり、人に怒りをぶつけたり。。。所詮小さい悩みだったんだなぁと思いました。

もう8年くらい摂食障害です。あの場で食事の仕方教えてもらったらご飯を食べるのが苦痛ではなくなりました。少量でもおいしく食べれています。沢山の気づきを与えてもらった場所でした。貴重なお話や、色々なことを教えていただいて感謝しています。

座禅は私は少しきつかったのですが(笑)まだ忍耐が足りないということなんだなぁと実感しました。本当にありがとうございました^^


こんにちは、13日は坐禅ご指導ありがとうございました。 坐禅の後、毎度何かを捨てます。そんなに捨てるものもないはずなのですが、探し出しては捨てています。先週末、調子に乗って中腰で捨てておりましたら、ついに、コシ、やられました。

これまででしたら、「痛いーもう駄目だー仕事もできないー」と弱音を吐き、暴れ(?)、周りに大変なご迷惑をかけるところですが、今回は坐禅の時のように、ていねいに腰痛さんと向き合っているせいか、無意識的な行動で自分も他人も痛めつけ、怒!、となることがとても少ないように思いますし、痛みエリアも明確なように思います。そもそも自覚的に適切な姿勢で掃除していればコシに迷惑をかけることにもならなかったのだろう、と反省中でもあります。

実際には「ある」ってことだけなのに、それを痛がってみたり、嫌がってみたりするのは、ただただ自分の心の趣きなのだなぁ...と、腰痛に限らず日々の諸事を観察している今日この頃です。

またその観察が楽しくて...あ、これも欲、なのでしょうか...。深遠です。


15日に初めて参加させて頂きました。道々すごく緊張していたのですが、お部屋と住職様の穏やかな雰囲気。。これがまさに家出空間!と実感致しました。窓の外に住職様が死にかかったという例のドラム缶がチラリと見えるのもまた微笑ましく。

非日常感をとても感じる事が出来ました。面白かったです。(特に蝋燭の明かりというのは気持ちのよいものだなあと初めて知りました。)

座禅は足が痛かったなーというのが一番強い感想です(すみません(笑)。でも続けてたら多分 心によいもの。。な予感が致します。そんな気がしました。日常的にやった方がいいみたい。そんな感想ももちました。

私は土曜日が仕事なものですから、中々参加できないのですが、隙あらばまた御指導頂きたいと思っております。このような機会を与えてくださったこと、本当にどうもありがとうございました。


9月6日に初めて参禅させていただきました。全く初めての経験でしたが、初心者にもとてもわかりやすくご指導をいただきまして、ありがとうございました。

いつも迷路のような出口のない同じ思考をグルグルしていましたが、「過去は記憶にしか存在せず、未来のことを悩むのは妄想である」というご説法に、(という内容であったと理解したのですが・・)迷路からやっと抜け出られそう、と感じました。

食禅は、ぎこちない動作になってしまいましたが、一口いただきますと、「これはいつもは忘れていた本当の食材の味!」と驚きました。感覚がとても鋭敏になっていたのでしょうか。

あまりにも物にあふれた自分のまわりと比べて、月読寺のシンプルな姿にも感動致しました。

また、出来ましたら是非ご指導を賜りたいと存じます。ありがとうございました。


9月6日に参禅させていただきました。大変丁寧なご指導を賜り、どうもありがとうございました。

わたしには、禅に取り組むことへの恐怖がありました。少しづつ禅に触れていくにつれ、どうやら自分への幻想があるみたい、と感じ始めてから、それまで培ってしまった”頭で解釈した自分像”が矢鱈に主張してきたのです。

けれど、意を決して再び参禅させていただき、案外穏やかな気持ちで取り組むことが出来ました。お坊さまのわかりやすいご説明や受容の空気のお陰だと思います。

参禅された方々のご質問や説法のトピックも、自分にも共通した点が多くあるなあと感じながら拝聴いたしました。

坐禅を組んでいる最中は、前回よりは心の波立ちを感じませんでしたが、かと言って集中できているわけでも自覚できているわけでもなく、まだ自分に捉えることの出来ない何かの間にいたような気がします。

少しづつ、着実に、これからも取り組んでいこうと思います。また、食禅は初めてでしたが、お粥もお漬物も大変美味しくいただきました。ありがとうございました。

食物をいただくことにもこんなに様々な要素があったのかと、改めてものを知らない自分を発見してしまいました。

帰宅後、寝すぎないよう19時以降は飲食を控え簡素な寝具で休む、を出来るだけ実践してみたのですが、ものすごい眠気と疲労感で、やっぱり寝すぎてしまいました。出直します。

たくさんのご指導、どうもありがとうございました。また参禅させていただきます際も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
心が集中して波立ちが静まったことによって、内に溜め込んだエネルギーが妄想ヴィジョンのようなものとして湧き上がってきているのです。

恐らくは同じく集中した時の感覚、という点で共通点があるため、連想が働いて似ているように感じられるのでしょう。 気にせずに淡々と淡々と、エネルギーを浮かび上がらせては受け流し去るのを続けて参りましょう。


8月30日はご指導ありがとうございました。

さて、私はものごとをえがくような仕事をしていますが、追い込みの折には思いっきり集中して、自動的に手が動くような感じにします。カフェで7時間、なんてこともありました(イエデ4コマ第五百四十三回目、心が痛いです。もうしません)。

そして座禅中、光の玉が上がったり降りたり、虫のようなものが呼吸に合わせて視線を動かしたり、というのは、私の中では仕事に集中できているときに感じる感覚に近いものもあるように思うのですが、違うのですよね。なんなのでしょう、と思います。

住職に大丈夫、といわれましたので、大丈夫ということでこれからも精進いたし ます。


8月16日に2度目の参禅をさせていただきました。

身体を強く掻くという無意識の動作も怒りに因るというお話がありましたが、そっか私の何気ない横着もそうだ、やる気が起きないの元も怒りと説かれていらっしゃいましたし、自覚なし溜まった負のエネルギーはいろいろなあらわれ方をするんだ、気づける集中力をつけたいなと思いました。

食禅は一人では難しく、初回、今回と特に楽しみにのぞみました。体験後しばらくは、食事に限らず日頃片付けごとのように済ませている日常のあれこれもまめやかに味わう心持でおこなえてモノにも自分にもツヤをつけることができそう、というような気分になります。


この間参加させていただいてから、生活の中に座禅で学んだ事がよい方向に向いているのをかんじている日々です。

自分の中でぶれそうな事があっても、呼吸に戻ろうとする流れが働きはじめています。本当にありがとうございます。

この2年程軽いマクロビの食生活をしていたのですが、もう少しきっちりした菜食をしていこうと思い始めました。大豆粥、ほんとうにおいしくいただきました。

小池さんのおぼうさま、なのにかんじるパンクさがわたしには、とてもここちよいです。ではまた。よろしくおねがいします。


8月16日の初心者座禅セッションに参加させていただき、ありがとうございました。世俗にまみれすぎている自分を再認識しつつ、感想を書かせていただきたいと思います。

感想は、”驚き”でした。

集中をすることで、普段気にも留めていない刺激を認識することができ、自分の意識の薄さを実感することができました。

また、日常生活でも色々と感じていることに対して、敢えて認識しないように心にフィルターをかけていることに気がつきました。

日常生活でのフィルターをはずし、認識力を高めることが怖いと感じてしまい、なかなかうまくいきませんが、袋小路に小さな穴を見つけた気分でした。

食禅についても、味付けをしていない小豆粥の食感が変わっていくさまがなんとも不思議な体験となりました。大根の漬物が辛く、口の中にあんなにはっきりとした大根の後味が残るものだとの認識をはじめてして、味わうという認識を新たにさせていただきました。

また、9月に入ったら座禅セッションに参加させていただければ、と思っております。

和尚様
未知なる扉ではなく、自分の中にある扉に気付かせてくださり、ありがとうございました。



坐禅セッションの感想です。

**瞑想について**

つい妄想が暴走を始めてしまうと止まらない私なのですが 瞑想でとても楽な気持ちになる事が分かりました。 小池様の著書を読みながらですと やはり『読みながら』なのでうまくいきませんね・・・・今回の坐禅セッションの小池様の声を録音しておけば・・・と思ったくらいです。

**食膳について**

瞑想のあとの食事は まるで『お食い初め』をする赤ん坊の気分でした。玄米と小豆とくるみが入っていた様に感じましたが1つ1つの味をあらためて 舌の記憶に刻む事ができました。

そして私のこれからやりたいと思っている仕事にとても役に立つ経験となりました。



普段、いかに思考があらゆる方向へと流されている事か、これではストレスも積もりに積もるだろう・・・とぞっとする思いでした。

そして、何かにとらわれる(執着する)と、自然な流れがストップし、しこりができて物事が上手く回らない。。。全ての事に通じます。 肩に力を入れ、無理やり何かを成そうとすると、肩こりの痛みを感じたり、血の巡りも悪くなって体が不調を訴えます。

坐禅の際と同様、普段から背筋を丁寧に伸ばして力まずにあらゆる動作につなげたいと思いました。



8月9日に初心者指導を賜った者です。その節はありがとうございました。せっかくご指導いただきましたのに、気分は散漫、座禅の手ほどきも説法もしっかと受かとめきれず、残念に思っています。

ご住職のご指導を、撥水加工でも施されたいるかのように、見事にはじき返している自分に気づけたことが収穫です。

座禅では、「集中」の周りをうろうろしてはとっとこ逃げ出す、苦痛嫌いの自分を自覚しましたし、食禅ではお皿を持つ、箸を持つ、お粥を掬う、口に運ぶ云々と続く個々の動作をまっとうすることが、こんなにもまだるっこしいものなのか! と感じ入りました。

ふだん「食事」と大雑把に捉えている行為が、一動作ごとに腑分けすると、精密なひとつながりの動き、であったことを、教えていただいて感謝しております。

ご馳走になりましたお粥も、口に入れたとたん自動的に美味しさが広がる扇情的?な味付けではないので、自分から美味しさを探りに行くという体験をいたしました。日ごろファストフードなど、安易な食事は排しているのに、味わい方がまるきりの受身、ファストフード的?であったことに気がつきました。



昨日はじめて座禅ご指導いただきました。ありがとうございました。おどろき体験がいろいろとありましたが、中でもショックだったのは、住職がセッション最後に「つきよむでら」とおっしゃったことです。ずっと、ゲツドクジかと...。
残念! 「つくよみじ」でした。いえ、ゲツドクジと読むときもあり、どちらでも構わないのです。



座禅セッションに参加して、その後、日常の中で「これは習った事がじわじわ効いているのかな」と思えたことをレポートします。

*物忘れが少なくなりました
以前は、次の部屋に入ったとたん「あれ、何の用事で来たんだっけ?」となるたぐいの事が時折あり、唖然とすると同時に「忙しくしてるから仕方がない」「脳の老化が始まってるのかなー」などと理由づけてましたが、雑念による失念だったようです。

*1アクションごとの満足感
考え事をしながらお掃除をしたり、本を読みながらお料理したり、テレビを見ながら&本を読みながら&ご飯を食べたり、(しかもプラス雑念OR妄想)そんな、ながら&ながら、を意識的に少し減らしたところ(完全になくす事は難しいです)。 日頃、なんとなくやっていた事が、ちょっと楽しく感じられ、後で、綺麗になったー、結構美味しくできたー(または、イマイチ、などちゃんと反省)と満足を感じました。

*不眠気味が直りました
上記二つは、気付いたらやってみる、というレベルで、完璧ではないのですが、これは効果完璧、で、セッション参加後、今のところ持続中です。職業柄なのか、不眠気味で、時に空が白んでくるのを布団で悶々と迎えることもありましたが、不思議です。

「座禅=不眠を治すもの」ではないと思いますが。それでも「今夜は来そうだ」という時には、布団に入って、習った呼吸禅を実施すると、てきめんです。(呼吸禅の用法を間違ってると思いますが。。。)

思いもよらず、実用的でした。



初心者座禅セッションに2度目ですが参禅させて頂きました。ご指導ありがとうございます。

自分は、座禅終了後のさわやか→その後ねむだるくなると、なるのですが整体後の揉み返しやスポーツ後の発散系のねむだるさなのです。体も動かしてないのになぜ同じような感覚になるのでしょうか?

以前にも教えていただいたよう上記のような感覚にとらわれずに、受け流そうとは思っているのですが。。。なんだか不思議です。
A:そういったことは、ぜひ生理学者や脳科学者の御方などに検証してもらいたいところですけれども、私の思うところを述べてみましょう。

ふだん、身体は余計な思考や、心によって強引に力を加えられていたりするせいで、本来の能力に制約を受けています。

坐禅によって思考の回転をストップいたしますと心による余計な負荷が取り除かれますぶん、身体独自の活動が最適化されるのです。 その結果といたしまして、自律神経系や免疫系、あるいは自己治癒能力や排毒作用といったものが飛躍的に高まるように思えます。

(座禅の時に大量の発汗を伴うこともあり、参禅者の感想を聞いていると、たいていの場合、その汗が非常に臭いということからも、体内の有害物質や老廃物が排出されていることがよく分かります)

有害物質を吐き出した後にやってくる「ねむだるさ」ということで、ひょっとしたら整体後のそういった感覚と似たものになるのかもしれません。



参禅の折に、龍之介さんに、指摘されました言葉が、慢 プライドでした。

えっ?とはじめ思いました。自分には、関係ないというか、縁のない言葉だったからです。 でも、よくよく考えてみたら、慢まみれの自分がいっぱいでした。気付かないうちに随分溜め込んでいた様に思います。

他人が言った言葉に反応したり、他人に言わせてしまったり、何もかもが、自分の慢の心が原因だったと、はっとしました。目から鱗とでもいうように、心がすっとした感覚でした。

それから、ずっと、「慢」をつかまえて念ずるようにしましたところ、随分気持ちや態度が、穏やかになれたように思います。

そして、また仕事が決まり、新しい環境で、やっていこうという気持ちにもなれた事が、とても嬉しいのです。指摘をしてくださった、龍之介さんに感謝致します。ありがとうございました。



9日の早朝坐禅に伺いました。夜明け前とはいえ真夏の午前4時は、厳寒の時とはまた異なるツラさがあるかもしれない・・・と思いつつ坐禅を組んだのですけれど、予想に反し集中するまでの時間が速いように感じられました。以前お話し下さいました、「仏教が生まれた地域の暑い気候は瞑想に適している・・」というのは確かにそうですね。

そして、朝の坐禅が集中しやすいのは、まだ起きてから何か仕事をしたり人に会ったり会話したり何かを観る、など外界からの刺激量が少ない時点であるためでしょうか?午後の坐禅の時と比べて、そのように思ったのですが・・・。(もちろん周囲が薄暗い、という点もあるでしょうが、これは夜の坐禅でも同じ条件ですものね。)

静まりかえった早朝、鍵のかかっていないドアを開けるのは、少々勇気!が必要でした。




初めての禅は難しかったです。 不勉強だった為でしょう、言葉も良く理解出来ていないと感じましたので、帰り際、龍之介さんの御本を買い求めました。良く読んで、普段の生活で稽古できたらと思う次第です。

今日お集まり頂いた皆様からも色々学ばさせて頂きました。ただ、皆さんが言うほど、私は不満・汚い言葉・怒り等のマイナスな言葉は浮かんで来ないのが正直なところです。 浮かんでこなければそれは、それで良し、とするべきなのか、それとも、もしかしてそのことによって うぬぼれ・おごり等の気持ちが潜んでいるのかと考えるべきなのか?なんだか自分自身が怖くなりました。もし本当にこの気持ちがあるのならば捨てなければいけないんでしたね。

さて、お粥とても美味しく頂きました。一口ごとに噛み締めて、食材の味や柔らかい・固い・丸い等のありさまが良く伝わりました。この様な頂き方も新鮮でした、所作は面倒ではありませんでした、むしろ好きです。今日のお粥はピーナツが入っているんですよね。これは初めての味わいです。早速自宅でも作ります。

「月読寺」には始終心地良い風が通り、空気が変わったと、感じました。
A:いやはや、最終解脱でもしていない限り、不満や怒りがない人間など存在しませんよ。(にっこり)

本当に怒りや不満がわいてこないのならそれで全然かまわないことなのですが、実際は恐らく、自らの感情に対するセンサーが粗雑なために、気付いていないだけだと思われます。 泣きたくなるような大げさな不満や怒りを探し回って「ああ見つからない」というのは、大きな間違いなのです。

たとえば「大きな間違いです」と言われると、人は誰しも心地よくはなく、ほんの少しはムッとするはずなのですけれども、 そのムッとするための火種が、怒りの、不満のカルマなのです。

あるいは、外を歩いていて「今日は暑いなあ」と少し思ったり、目に入ったポスターを見て「けばけばしくて気持ち悪いなあ」と思ったりするのも、怒りのカルマゆえなのです。 怒りのカルマがない人にとっては、暑さがやってきてもポスターがやってきても、怒りを燃やす燃料がありませんため、不快にはならないのですから。


午前の座禅セッションでは、痛みを意識として捉えるようになってから、呼吸に集中しようとしても、大変荒々しく、猛スピードで様々な感情が浮上していたものです。楽を欲求し、それに応えようとする自分と対面したとき、苦と向き合おうとしていない事も思い知らされました。後にご指導してくださった、痛みの細分化の試みは不思議な体験でしたね。

午後では、引き続き、痛いという感情は浮上してきたものの、比較的、平静を保てていたように思います。自分の体を分割して各場所に集中する丁寧な作業は、自分の内側を散歩したかのようでした。

終了後、体が温泉入浴後のようにポカポカ。その心地良さも断ち切ることが出来るのが次のステップというお言葉に、はっ。

食禅では、一つ一つの自分の動作、感覚に意識を集中することで、自分が普段、いかに味気ない食事をしているかと気付かされました。箸を置く時に、箸置きの雪だるまさんをちらり。噛む、ごくり。箸を手に取る時にも、雪だるまさんをちらり。何気ないことが、どれも特別に感じられました。

帰宅途中では、湯冷めだったのでしょうか、短時間でしたが孤独感でひんやりしましたが、座禅と関係があるのでしょうか。

節目節目に、龍之介さんが一つ一つの問いに丁寧にお話してくださる度に、気持ちが穏やかになり、勉強になりました。また、他の方々の経験や感想も、とても興味深いものでした。この度、実感したことを心に添え、今を見逃さない時間を少しずつ延長していけたらと思います。




7月26日の初心者指導と午後の指導を受けました。有難うございました。

今まで瞑想や仏教に関する本をあれこれ読み漁ってきたのですが、ご指導頂いた通り、何より実践が大事だと思い、自宅でも就寝前に座禅をしました。

まだまだこれから続けていかないといけませんが、今日は仕事中でも刺激に対する反応について、「苦」「楽」と確認することができ、パブロフの犬のごとく感情に振り回されることを防げたように思います。 またご指導を受けに伺いたいと思いますのでどうぞ宜しくお願いします。それまでとにかく実践したいと思います。




26日の初心者座禅の指導と食禅に参加させて頂きました。ありがとうございました。

的確なご指導と、お言葉により初心者ですがなんとか座禅を組むことができました。

食禅も、人生で初めて真剣に器に触り、食物を五感で味わう事を経験致しました。かつて経験した事のない、それはそれは新鮮な感覚でした。

あと以前どなたがか質問されていた事と重複しますが、座禅終了後の帰宅時に、体が眠む怠るさで仕方ありませんでした。これは深く考えず、「そんな事もあるww」ですませてよろしいのでしょうか?

座禅から感じたい事がたくさんできまして、とても有意義でした。ありがとうございました。
ええ、心が特殊な状態になることによって様々な反応を呼び起こしますが、強烈な眠気はよくあることです。 とりわけ心の中に溜まっていた「迷い」のカルマが顕在化して参りますとき、眠気として現れます。 眠気に流されず、眠気を念じて受け流してあげることに成功すれば最善、放っておくのが次善、という具合にお考えください。




本日、初めての座禅、でした。自分が座禅について思っていた概念と違っていたところがあり、それが判ったのも、具体的なテクニック中心の説明と、座禅中の状態を後で尋ねていただき、丁寧にご指導頂けたお陰、と思います。

私の場合、初回は、湧いてくる雑念の音量が、無視出来ないほど、大きく、呼吸に集中する事に飽きてきた頃、気づくと、その考え事に夢中。な事に気づきました。

2回目は、考え事に捕らわれていると、身体が決まった反応をすること、に気づきました。眼球(特に左目)と眉間、なのは何故なのか、気になるところです。

3回目は、考え事の音量が随分小さくなり、捕らわれても「あ、今、雑念」と流すことも出来る様になりました。と、同時に「あ、集中って、この状態?できてる?」といったところまで、行けました。

最終的には、呼気に集中するところまでしか出来ず、鼻先に集中するところまで行けませんでした。けれど、集中力がなく、飽きたら手近な雑念の世界にサマヨイ出て楽しくなろうとしたり、理解が困難な事に出会ったとき、そこにとどまらず、オリジナルな勝手な方法でやり過ごそうとする、自分の座禅中の態度と直面し、これって、もしや私の普段の姿勢なのでは?と思えたのが収穫でした。 ご住職のご指導に感謝しています。ありがとうございました。

また、他の方も書いていらっしゃいますが、月読寺は、居心地が良かったです。午後のセッション参加は予定外でしたが、参加してみて、午前に出来なかったところまで行けました。




御住職の臨機応変な対応により、歩行禅を組み入れていただけたのが、後の集中に繋がり、とても有意義であったと思います。正直、本当に眠かった!! まだまだ、敵(?)は手強いです。

また、2週続けて参加させていただくことで、より深く理解を深める事ができたと思います。せっかくの体験を他の方にも知っていただくべく、感想文を提出したいと思います。

7/12、19日と2週連続して初心者指導→午後セッションまで参加させていただきました。 両日とも午前中の初心者指導を受けた後、座禅への興味と月読寺独特の居心地の良さに厚かましくも、午後も居座ってしまった次第です。座禅会後は心地よい肉体の疲れと、リラックスした、緩やか、穏やかな心持ちとなりました。

また、普段の生活にも少しずつではありますが、禅の心構えを持つ事ができるようになりました。 座禅自体に肉体的な辛さが全くない、と言ってしまえば嘘ですが、それを越える貴重な体験をさせていただいた、と思っております。正直に申し上げると、私は普段背筋が悪いので、背中の筋肉(特に腰あたり)に筋肉痛が残りましたが、座禅会の良きお土産の一つと思ってます(笑)。

また、座禅以外でも御住職の説法や問答もとても勉強になりました。まだまだ未熟で不勉強ですので、引き続き座禅セッション等を通じて学ばせていただきたいと思います。


先日、満月の夜の座禅指導に参加させていただきました。

夜の部は少人数であったこともあり、座禅そのものをしっかり組めたことはもちろん、座禅について、仏教について、日ごろよりギモンに思っていたことをいろいろと質問することが出来、たいへん有意義な時間を過ごすことが出来ました。 小池さんにはひとつひとつの質問に丁寧にお答えいただき、感謝の気持ちで一杯です。 同じ日に一緒に座禅を組むこととなった参加者の方々が質問された事柄にも、自分にもあてはまる"気づきの種"が沢山あり、勉強になりました。みなさんとご一緒できたことに感謝しています。

仏教においても、その他の宗教においても、大切なこととされている、『他者への思いやりを以って生きる』ことと『自分を尊重すること』の両方を成立させることの難しさについて質問をした折に、小学生の算数や漢字の練習のたとえで、「じぶんの今の実力にあった問題を解くことが大事」という例えを使ってお話をしていただきました。

確かに小学二年生なのに、小学六年生の計算ドリルを解こうとしても無理ですし、無理なことに挑戦し続けるとそれこそ全て投げ出してしまいたくなります。なので、今の自分にとって易しすぎず、かといって難しすぎるのでもないレベルの課題に挑戦しましょう、というお話を深く頷きながら拝聴しました。

またそれに付随して、もし挑戦してうまくいかなくても自分に反発しない、自分を非難しないで、「思うようにいかなかったこと」も受け流すことの大切さについてのお話も分かりやすいメタファーを使って説明いただきました。

一本目の矢(「うまく行かなかった」)

二本目の矢(「どうして自分はうまくやれないんだ」「ああ、こんな自分はダメなやつだ」)

三本目の矢・・

と続け、自己嫌悪が雪だるま式に膨れあがる前に、一本目の矢が自分の心に刺さった時点でその現象を「見て」そこで考えることを止めることが大切・・というお話でした。「捨」のトレーニングでもあるんですよね。

座禅からはすこしはなれますが、カルマ(業)についてのお話も伺うことができ・・・これは好奇心を刺激される興味深い内容でした。

シンプルかつもっともインパクトがあったのは最後の座禅で実践した、出入息念のトレーニングのひとつです。息を吸って止める・・すると、苦しくなってくる。苦しいので吐き始めると最初のうちはとても気持ちいい・・ けれども吐いて吐いて吐き切ると、また苦しい。息を吸いたくなる。けれどもまた吸い始める前にあえて止めて「苦」を感じているじぶんを観察する。

そのプロセスで、息を吸うのも苦、吐くのもまた苦、どちらも楽に思えるのは束の間のこと・・という真理(と呼んでしまってよいでしょうか・・)を身を以って感じられました。これは全てにおいて通ずることで、たとえば空腹時にご飯を食べるのは楽、けれどもそれも食べているうちにおなかが膨れてきて苦になり・・というプロセスも同じ・・。 これを身を以って感じることが出来たとき、ふしぎな爽快感を覚えました。(そしてこれをしっかり「見る」ことが「捨」につながるのだと思います)


7月19日9時からの初心者指導に参加させて頂きました。

初心者ゆえに、なかなかうまくできませんでしたが、それでも、ふと、「あれ?なんとなく集中できていた瞬間があった気がする」ということが数回ありました。

また月読寺のゆったりとした空間と、座禅中の龍之介さんの穏やかなトーンのアドバイスのお陰で、終始リラックスして臨む事ができました。坐禅というと厳しいイメージがありましたが、初めての方も気負わずに参加されるといいのではないかと思います。


7月18日、満月初心者指導と、7時からの座禅セッションに参加させて頂きました。 有難うございました。

本で読んで理解したつもりになっていたことを忘れていたり、参加者の方の質問で気づきが沢山ありました。(例えば、座禅に集中出来ない時、そんな自分はダメだとイライラするのではなく、集中できていない状態を見つめるなど・・・あぁ、そうかと気持ちが楽になりました)

また、自分が疑問に思っていた事について他の方の質問で聞くことができて大変興味深く充実した時間でした。偶然の参禅者の集まりのようですが、これも大切なご縁なのかも知れませんね。

キャンドルのゆらぎの中、座禅+説法を聞かせて頂き幻想的で心地よくて素晴らしい時間でした。帰りがたい程の心地よさでした。何とかして朝4時の座禅を体験したくなりました。

また、龍之介さんがお話されているお姿、手の動き、動作が美しくて流石だと思いました。(私の好きな大衆演劇の竜小太郎さんにも負けない美しさでした!) 座禅と仏道で心が美しくなったら自分も上品な所作が出来るようになるのでは?と勝手に解釈して嬉しくなりました。

★この日のレポートは、是非、他の方にお願いしたく、私は勝手な感想をお伝えしました。


7月18日、満月の日の坐禅会、どうもありがとうございました。

行きは雨が少しだけ降っていて、お月様が見えないかもと思っていましたが、失礼するころには雨は上がり、とっても美しいお月様が見えました。

その日いらしていた方々も、お坊さまも、空気も、凛としていて優しい感じで、初めての坐禅は充実した気持ちで終えることが出来ました。

普段、わたしは集中力がほぼない状態で生活していて、意識が頭のてっぺんから抜けていってしまってるようでピヨピヨしていました。坐禅のあいだも、何度も「ああピヨピヨしている」と感じました。

ですが、「いま自分に起こっている『それ』に即座に気づき感じきる」、という作業は、大変でしたがなんだか面白かったです。上手く言えませんが、そうかそうなんだ、という感じでした。

月読寺を出て普段に戻ったら、またピヨピヨしてしまっていて、あらと思いましたが、お坊さまにご指導いただいたことを忘れないよう、普段から坐禅を実践していこうと思います。 またぜひ参加させてくださいませ。どうもありがとうございました。


初めての体験で、わくわく、どきどきと期待感と不安感でいっぱいでしたが、全く苦痛は感じませんでした。

はるばる飛行機で飛んで行きましたが、もっと近ければ毎月でも参加したいくらいです。

住宅街にありながら、そこだけが周りと違う空気が漂う、そんな不思議な空間。とてもココロが休まりました。 次回はひとりで参加したいと思います。


先週の座禅会からもう一週間とは早いです。あの時は、暑さをまったく感じませんでした。


坐禅セッション(7/5)参加させて頂き、ありがとうございました。あっという間の3時間でした。

正直、初心者指導3時間は長く厳しいものと覚悟していきましたが、あっという間。充実した時間でした。 今度参加させていただく際は、午後のセッションも体験したく。

ところで、月読寺に入る時は、ドアをノックして外で待っているのが正しいですか? 九時始まりと聞いて、8時55分頃伺ったところ、始まっており、ちょっとびびりました。(しかし、ご住職の目の前での座禅、結構よろしかってですよ。)
お答えします。ドアをノックして、勝手に入ってきてくださって構いません。 時間は・・・いやはや、全員揃ったと勘違いして、始めてしまいましたが、普段は時間通りに始めます、この度は驚かせましたことお許しください。


7月5日初心者指導に参加させていただきました。図々しくも美味しい「冷製の豆乳南瓜しるこ」まで、ご馳走になりました。本当にありがとうございました。

禅についても知識がなく、果たして、集中できるのだろうかという不安がありました。イメージしやすい方法など、分かりやすく説明して頂きましたので、足の痛みも少しだけ克服して、挑戦することができました。

はじめのうち、いろいろな物音が気になったり、いろんな考えが浮かんできたり、それを感じる自分がいたり、足が痛くなったりしていましたが、いつのまにか、気にならなくなっていました。いままで、自分をこんなに客観的に見たことは、なかった気がします。そして、終わった後の、なんともいえないすっとした感覚は、癖になりそうかも!と思いました。まだ充分では、ありませんが、良い体験ができた事に感謝です。

そして、なによりも、聡明で、物静かな御師の接し方は、潔く、とても心地よいものでした。本当にありがとうございました。

そして、恐縮ですが、3回目の[坐禅の]時間に念じた言葉を教えていただきたいのです。家に帰ってから、思い出そうとしても、すべてでてこなかったのです。ちゃんと、集中できなかった証拠ですね!!宜しくお願いします。
慈・悲・喜・捨を念じるための言葉は、もう少しばかり微調整したうえで完成いたしましたらウェブサイト上に公開いたしますので、今しばらくお待ちくださいませ。


小さな月読寺の坐禅会初日は、とても暑い日でした。けれど程よく外の世界から遮断された場所の、程よく狭い空間は(たまたま私1人でしたから広すぎるくらい)意外に集中しやすく感じられました。坐禅指導を受けるのは3回目まだ慣れていない状態を、不思議なほど的確に見抜いて一つ一つ細かく教えて下さったことに感謝しております。

いつも、優しい口調の中にピシリと厳しさが存在していて、今回も「頭で理解するだけではなくココロとカラダで実感しなければ」という注意を頂き、あらためて恥かしくなりました。とても難しいものだと、感じました。

暑い3時間の後、冷たい南瓜汁粉が身体を潤してくれた時、「苦」が消えた瞬間に「楽」が生じたことを、少し分かったように思います。坐禅のあとに、外の空気の中を歩く自分が軽く清々しく、それはとても新鮮でした。


土曜日は服装を間違え、座布団を占有しましたが少々膝が痛かったです。でも着物の時よりはずっと楽でしたが・・

ご住職様の指導は具体的で実用的で画期的だと思っています。「気にしなければいい」なんて言われる気持ちを「音、音・・・」で消すことができるのですから。 でもその止める自分の気持に、気付くのが大変でした。過ぎ去ってから後を追うように気づくのですから、やはり座禅会での訓練が必要と感じました。


以下は、拙著の担当編集者様に一泊二日の坐禅指導をしたのちに打ち合わせをいたしました際にいただきました感想文です。 きっと他の方々への参考にもなりましょうから、御本人の許可を得てここに掲載いたします。
先日の禅セッション、感想メモをお送りいたします。

「お客様の声 たった一泊二日のセッションで、痩せてお肌がキレイになって、人生が変わりました!(41歳、女性)」……という、超簡単バージョンもありますが(^^)

【食禅】
■今回、イエデカフェにお邪魔して、最初にご指導いただいたのが食禅。これはショック療法としての効果が本当に大きかったと思います。日常から非日常へと、否応なく意識が切り替わりました。

【食べることに関して】
■今回の禅セッションに入る前、空腹に耐え切れなくなったら嫌だなぁ、空腹で気が散って瞑想がうまくできなかったらどうしようと、とても心配でした。でも、結果として、そのようなことはまったくなかったのは、驚きでした。

■ふだんの食事でも、「よく噛んでゆっくり食べたい」とは思っていました。でも、そうしようと意識しても、口と手をコントロールできず、つい早食いに。今回、食禅をご指導いただいたことで、「ゆっくり味わって食べる」ということができるようになりました。そうすると、本当に、いつもより少なめの量でも満たされるんですね。

■仕事をしていて煮詰まってくると、ガムやミントタブレットが手放せなかったのですが、セッション後は、依存を断ち切れています。口がキレイになった感じです。

■私は以前、摂食障害だったことがあり、今もストレスがたまって現実逃避したくなると過食気味になります。以前、龍之介さんは、「玄米をよく噛んで食べれば、過食はおさまる」という主旨のことをお書きになっていましたよね。その効果は確かにありそうということを、今回のセッションで実感しました。

【瞑想】
■「眠気と脚の痛みを我慢して、長い時間、座っているのは辛そう」「眠くて脚が痛くて、瞑想がうまくできなかったら嫌だな」「瞑想中、退屈して、気が散りまくったら嫌だ」……ということも、今回のセッションに入る前の心配事でした。たしかに、眠気も脚の痛みも雑念も存在したのですが、それによって瞑想を邪魔されるというよりも、龍之介さんが仰ったように「飛んで火に入る夏の虫」、プチ修行の練習問題として捉えることができたのは、いま思い返しても、大きな驚きです。

■坐禅修行とは、無念無想、空っぽの状態になる訓練であるというイメージを持っていました。ですが、今回の瞑想は、少々誇張して言えば、「身体感覚を追いかけるのが、理科の観察をしているように面白くて忙しくて、退屈する暇がない」。それまで抱いていた「空っぽ」のイメージとはずいぶん違いました。

■「集中している」とはどのような状態であるのか、このことを、身体感覚として実感できたのも、ひょっとしたら今回が初めてのような気がします。

【歩行禅】
■体を動かすんだから、座って瞑想するより退屈しないだろうと想像していました。ですが、ただ歩くことに集中するのは、私には、呼吸に集中するより難しく感じられました。頭がぼーっとしてきて、早く終わらないかなぁと思いました。いつかまた機会があって、歩行禅がうまくできるようになったら、この感想がどう変化するかは、楽しみでもあるのですが。

【ご指導】
■毎回の瞑想の後、龍之介さんに「こんなことを感じた」とお伝えしたり、「これはどういうことか」と質問したりするフィードバックの時間があったのは、とてもよかったです。■龍之介さんは答えを誘導するような質問をなさらず、こちらから話をするのを聞いてくださるスタイルなので、最初のうちは、「ちゃんとできていたのか不安だな」「トンチンカンな感想を言ってしまったら恥ずかしいな」と、躊躇する気持ちがありました。が、次第にそのような気持ちは消え、「自分が感じていること、自分に起こっていることは、すべて等価」と捉えられるようになったことも、龍之介さんのご指導のおかげですね。

【夢分析】
■二日目の朝にお話ししたように、「夢をちゃんと覚えていなかったらどうしよう」と夢にまで見て心配していました。ですが、龍之介さんと話をしているうちに、夢の中身だけでなく、「断片的に覚えている夢の光景をセレクトして、そこを言語化する」という行為自体も、自分の潜在意識の表出であり、分析の対象であるような気がしてきました。

■ふだんの生活でも、「見た夢を思い出す」作業を繰り返していると、何か気がつくことがあったり、変化が起きてきたりして、自分で自分と対話できそうな気がしています。

【呼吸】
■セッションのときにもお話ししたことですが、呼吸が浅い・深いとはどういうことかを、きちんと体感したのも、今回が初めてのような気がします。

■日常生活のふとした合間に、自分の呼吸がどんな状態であるかを意識するようになったのは、セッション後の大きな変化の一つです。

■結跏趺坐での瞑想は実践できていないのですが、心がざわつきかけたときに、数分間目を閉じて呼吸を整える、ということはちょこちょこやっています。先日、いやいや休日出勤をしたときにも、幸いオフィスのフロアに誰もいなかったので、タイマーをかけて10分間ほど呼吸を整えましたら、気持ちがすっきりして、すっと仕事に入り込めました。

【変化】
■この春は諸事情があって、ツレとの間が、喧嘩とまではいかなくても、ぎすぎすしていることが多かったのですが、セッション後は比較的穏やかに接することができています。そうすると、相手のほうも苛立つことが減り、家のなかに、よい空気がたちこめているのを感じます。

■最近、それほど仕事が立て込んでいないときでも、朝起きぬけにまず「焦り」を感じ、「今日はどんなメンドクサイことがあるんだっけ」と確認し、「あーあ」と憂鬱になって、一日が始まる、ということが度々ありました。ですが、セッション後は、起きぬけに焦燥感に駆られることがなくなっています。この状態が長く続いてほしい……。

■「怒り」や「欲」や「慢」に駆られてイヤな気分になったとき、この「イヤな感じ」は、瞑想のときに身体の感覚として感じた「苦」と同じだな、と気づいてあげると、「イヤな感じ」がおさまってくるような気がします。

■セッション後、全般的に、気持ちのざわつきの波が小さくなったと思います。

■セッションに入る前、せっかく龍之介さんに瞑想をご指導いただいても、イエデカフェを出て日常生活に戻ったとたん、元の自分に戻ってしまうんじゃないかな、ということも心配していました。実際、セッションを終えたあと、感覚が鋭くなったとか、頭の回転が速くなったとか、そういうスペシャルな変化を感じることもありませんでした。

■でも、今回のセッションを経験したことで、自分に何かよい変化がもたらされたことは確かに感じています。私にとっての今回の瞑想体験の効果は、「クスリが効いている」ようなものではなく、あのような静謐で集中した状態を体感したことそのものにあるような気がしています。あのときの感覚の記憶が自分の意識のベースキャンプになり、あの状態を思い出すことで、千千に乱れがちな気持ちの振れ幅が小さくなる、そんなイメージです。

■自分によい変化がもたらされたとはいえ、日が経つにしたがって、「雑念で気が散っているのに、それに気がつかない」「怒りのせいで苦を感じているのに、それに気がつかない」といったように、センサーが鈍くなっていくのも実感しています。

■せっかくの効果を一過性のもので終わらせないためには、自分の生活に「修行」を組み込まないといけないなぁと思うと同時に、将来的に、以前のイエデカフェでの坐禅会のような場を定期的に設けていくことはできないかなぁ、などということも、ちらちらと思っています。

【理解】
■セッション後、本の「イエデ式修行法」の章を読み返したところ、砂地に水がしみこむようなというか、一言一言が生き生きと迫ってくるようなというか、まるで初めて読むような新鮮な読後感でした。自分は大切なことを何も理解しないまま本をつくっていた、ということに気づいてしまったのは、少なからずショックではありましたが。

■実際に龍之介さんのご指導を受けることがない大多数の読者に、どうやって、今回の私の驚きや感動を追体験してもらうか。難しいですが挑みがいのある課題と思って、次の本の編集にあたりたいと思っています。


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